サーフナッツ サーファーの輪

連載 surfers

千葉県勝浦市鵜原在住
オーシャンサプライズ代表
照岡道廣 60歳


■サーフィンを始めてからピークで乗れるまで

波乗りを始めたのは35年くらい前ですかね。地元の鵜原ビーチに東京から先輩の大工さんがロングボード一本持ってきたんですよ、みんな並んで待っていて乗らせてもらった。それがサーフィンを始めるきっかけです。
教彦さんとは松部で一緒にサーフィンをしていたけど、そのとき教彦さんはスター俺はただのローカル。教彦さんは鴨川の川井さんのところにいて一番サーフンをしていた頃で輝いていた。こいつはすごいなって思った。次元が違うサーフィンをしていましたね。プロになるにはそれを超えないといけないけど、俺にはそれが無理だとわかっていましたから、ずっとアマチュアでサーフィンしていました。
CHPの中村さんや川井幹雄さんがマリブで乗っているころ、俺は鵜原で修行していた。しばらくして俺もマリブにいったけど、上手な奴がいなくなり暗くなってからゲッティングですよ、そんなことが三年続いたかな。当時のマリブは威厳がありましたからね。ショートボードやっていて桜井喜夫さん(通称ヨッチャン)と知り合い、教彦さんやローカルの蛸操とも知り合ったけど、それでもピークから乗れるのに8年かかりましたよ。腕前だけじゃなくて顔が利いてスター性も出来てこないと乗れない。ローカルといえどもグループに入ってコミュニケーションが取れないとピークには行けないし、ポイントブレークなんて入れない。
昔のマリブはオーバーヘッドの良い波がきていたんですよ、でも今は変わった。エビとかアワビを増やす魚礁を作ると言って、沖にも投石したんですよ。だからうねりが直接リーフに当たらないで魚礁に当たってパワーが落ちたうえに、道路が出来てバックウオッシュも入るようになった。


■ヨッチャンの還暦トリップを企画

ヨッチャンの60歳の還暦パーティをするために、いろんな人に協力してもらってモルジブのボートトリップを企画した。現役のプロサーファーを三人入れてGAORAと雑誌に話をつけたんですよ。GAORAでは一時間半の番組になった。プロの他にはヨッチャンの板のスポンサーしている添田博道、後は金と時間に余裕がある友人をいれて毎日船上で還暦大パーティ。
実は二年前に部原でGAORAの取材受けたときにモルジブに行く計画があることは触れておいたんですよ。そうしたら向こうからどんなメンバーですかって乗ってきたんです。
船では4000ドルくらい酒飲みましたね、4000ドルの量をどう説明したら良いかわからないけど樽の生ビールはすぐ空いちゃうし、シャンパンありバーボンありで毎日乾杯の嵐。
ヨッチャンとはこの先も出来るだけ短いのでやろうって言っているけど、少しずつ長くなってきていますね。(笑い)ショートでやるのは頑張ってあと4〜5年、65歳位になったら板が長くないと体力的にきついと思う。
ハワイのサーファーのように、シャワー代わりに朝のサンセットで5本くらい軽く乗ってから朝食を食べるとか、仕事帰りにワイキキの優しい波に入ってから帰るとかやっていれば、いつまでも出来るだろうね。。


■ウエット屋の仕事

ウエットスーツの仕事に就いたのは、サーフィンのブームのピークが過ぎてきた頃、そろそろ仕事をやろうかなって思った。それから29年間、もがきながらやっています。24歳でヨッチャンに出会って、こんな面白い遊びをやらないてはないと思った。
ヨッチャンのクラブハウスに転がり込んでアルバイト生活しながらサーフィンに夢中になった、気がついたら30才。そろそろ仕事をしないとまずいと思っていたときに友人がウエットスーツ屋をやるんで勤め始めたんですよ。でも平日に松部とか部原とかいい波が立つじゃないですか、波があると仕事に行かなかったからやっぱりクビになった。(笑)
それじゃ自分でやろうって思い、ヨッチャンからビクトリーというウエット屋を紹介してもらって、そこのライダーをさせてもらいながら、基本を教えてもらったんですよ。デザインするとか型をおこすとか作る工程は解るんですが、全くゼロからのスタート、失敗もありましたよ。最初に作ったヨッチャンのウエットなんか胴が長くて足が短くて、「すごいウエット持ってきたなー」って言われた。その話はいまだに言われますよ。(笑)
ウエットもこの数年素材がめちゃくちゃ進歩して、高くなったけど保温性がすごく良くなった。素材は日本製が一番良い。柔らかくて毛のある奴とか良いものができてきたけど、もっといいものを作りたい。今作っている素材も開発に3年くらいかかったかな。
所属プロはハワイにいるワールドチャンピオン、デレク・ホーやマイケル・ホーと子供2人。マイケル・ホーの娘がワールドツアーにデビューしてすぐに1勝して話題になった。日本人のプロサーファーも入れたら17〜18人になるよ。
5年間部原ビーチでWCTやっていたとき、中村さんの紹介でハワイの日系ジョン・シモオカという選手と知り合った。泊まれるあてもないのに友達をたくさん連れてきて、泊めて食わせてくれたら大会のときにロックホッパーのウエットを着るという話になった。それ以来ハワイからどんどん来ては泊まっていった。その一人がデレク・ホー、マイケル・ホーだった。英語もしゃべれない俺なのにラッキーでしたよ。
ワールドチャンピオンをデレクが取ったって聞いたときは感激したけど、ウワーお金がかかる!どうしようって思った。ワールドチャンピオンの契約料なんてわからないけど、会社が小さいから契約料はたくさん出せないって正直に言ったら下げてくれたから、そのかわり3年契約にした。
彼がチャンピオンをとって俺も世界が変わりましたよ、今でも一緒に酒を飲みますよ。


■今年は俺が還暦

昔は4フィート以上の波もやりましたけど、今は3フィートが限界かな、反応が遅くなっているからあぶない。一応部原や松部はチェックするんですよ、でも年々入らなくなりましたね。天気のいい日に気分よく乗りたい、本数じゃなく良い波を5〜6本も乗ればいい。
今でもサーフィンできるって幸せですよ、当時の仲間が集まれば昔に戻れる。みんないつまでも若者。サーフィンは海を通して仲間が増えるすばらしいスポーツですよ。
今年還暦ですが、俺もスケジュールを組んでトリップに行こうと計画しているんですよ。でも人が多すぎて人選が大変ですよ。一緒に行くプロサーファーがきっちりやりたいと言っているからメンタワイかノーススマトラかモルジブかってところです。ボードトリップは皆が仲良くなれる、目が覚めたらポイントしかないわけだから。みんなのサーフィンみているだけでも楽しいんですよ。
いままでもプロサーファーを連れて5回くらい海外取材に行きましたが、プロサーファーの乗る波は危険だから僕は優しいところで楽しくやっていますよ。
ずっとサーフィンを続けたいから、サーフトリップに行っても無理しないで自分にあったサーフィンを楽しんでます。

黒木 保 千葉県市川生まれ 54才 クォーターサーフボード代表取締役 シェーパー


■アメリカ・ハワイがサーフィンを始めたきっかけ

波乗りを始めてやったのは30数年前、中学の同級生でジャステスサーフボードの板を削っている田島三男というのが波乗りを始めて、かなり波乗りに狂っている時期で一緒にやろうと誘われた。僕はそんなに興味がなく、年に一回か二回くらい付いて行く位だった。 その田島とアメリカへ行こうって話になって、僕はサーフィンには興味が無かったけれど、「アメリカ」に惹かれて19才のときにカリフォルニアに行った。それがサーフィンをやるきっかけになりましたね。何の知識も無いのにホテルも何も予約なしで行ったんです。行ったときに運悪く交通ストがあって、交通機関が何も動かなくなった。しょうがないからイエローキャブを使って移動していたんですよ。でもその頃は一ドル300円以上の頃だからお金がすぐに無くなっちゃった。二人でおおざっぱな事を考えて、島だったら歩いて動けるだろうってんでハワイに行く事にしたんですよ、ハハハハ大きいのに・・・。持っていたのが一年使えるオープンチケットだったからハワイ経由で帰って来られたんです。 アラモアナのホテルは、ベッドが四つも入っている一泊250円くらいの小さな部屋だった。夏だからアラモアナの波は最高に良くて、田島はますます狂ったようにサーフィンしていた。その頃からかな、僕がサーフィンやるか!て思い出したの。田島はテッドで働くのが決まっていたから先に日本に帰って、二ヶ月位後に僕も日本に帰った。


■修理のバイトを頼まれたのがこの仕事に就くきっかけ

しばらくプータラしていたらテッドの阿出川さんの奥さんから アルバイトで修理をやらないかって言われて、それがきっかけ で今の仕事をやるようになったんです。それからあっという間 の25年ですね。 テッドで板の削り方を教わったわけだけど、 その頃は教わると言うよりも見て覚えると言った方が良いかな 。その頃テッドにはシェーパーの飯高さん、蛸さんと田島がい て、飯高さんからとにかく見てろって言われた。段取りだけ教 わって後は自分で見てきたモノを作りながら覚えるという感じ でした。たくさんいろんな板を見て試して、今に至っている感 じですね。 一昨年、田中兄弟のイズキが僕の板で全日本のグ ランドチャンピオンを取ってくれたんですよ。一般ユーザーの 板を作る時もプロの板を作るときも同じように接していますし 削り方も同じなのですが、プロの板を削るときには気が入って しまうようです(笑)。ボトムのラインを少したててほしいと かレールは少し落とした感じにして欲しいとか、そういう話を 交わしながら作ります。僕の板を使うプロは日本に三人、バリ に二人います。 ユーザーと向き合った時に自分の頭の中に一 番乗りやすい板がイメージ出来るんですよ、これだったら間違 いないぞって。その感性で作った板が自分の板だって思ってい ます。


■昔のサーファーは熱く繋がっていた。

昨今は波乗りの楽しみ方が変わってきて、競技一辺倒じゃなくて、長い板やセミロング、ファンボード系まで多種多様でいろいろな楽しみ方をしていますね。 僕も昔は毎日入りましたよ。その頃のウエットはビーバーテールしか無くて、オニールのフルスーツ見たときはびっくりしましたよ。サーフボードも材料から何から変化していて、昔と違って軽い、でもボードが薄くて軽い分弱いですよ。余り弱いって言っちゃ行けないんですが、ハハハ!よく折れます。 昔は大きい、重い、厚い、曲がらないでしたからね。 その頃、一日中海にいるみたいな、熱くなっている人がたくさんいたんですが、今は余り見ない。僕たちはその頃のパイオニア的なサーファーの二代目、盛り上がりも凄くて楽しい時代でしたよ。 ポイントに行くには風を見て行けよ!とか、海にはいい人がたくさん居ていろいろな事を教わりましたよ。今は簡単にネットなんかでいろいろ情報が手に入るから人との繋がりが希薄で熱くならない。


■クォーターサーフボード

ここはボード工場と店と住まいと一緒になっていて、スペースが限られているから板に関わる物しか置けないですね。ウエットスーツもサイズだけ取って注文。服は置かない。デッキパッチとかリーシュとかくらい。作るのはクラブの子に頼まれて作る、クォーターのオリジナルのTシャツやタオル、帽子くらいかな。店の名前は、四人兄弟の末っ子だったし四人兄弟で一番の厄介者が始めた仕事だからクォーターにした(笑)。
一応体が動かなくなるまで、波乗りも仕事も続けますよ。

伊豆 白浜マリーナ 酒井厚志51才 日本サーフィン連盟広報委員長・理事

サーフナッツのサーファーズは見ていました、源さんのページも見ましたよ。
みんな知っている人ばかり、自分より若いのは赤井くんくらいかな。サーフ1の編集長になって忙しいみたいです。桜井喜夫さんは僕が高校三年でサーフィンを始めたころ新島で出会いました。島でキャンプしていて、いかにもサーファーのお兄ちゃんって感じで、今でもそのころのまんまですね。20年くらい前にスリランカでも会ったことがありますが、ズーっと同じペースで人生を楽しんでいる。源さんも一年中あの感じ、スクールではスパルタで教えていますよ。僕のところのスクールは年間500人位、7、8月の夏が中心で冬は休んじゃう。大体ネットで調べてから来る人がほとんどで、直接来る人はいないですね。初心者がほとんどですが、リピーターも多いですよ。今は昔と違ってハワイのように、この辺のホテルからオプショナルツアーで来る人も増えています。午後は水族館に行くから午前中にサーフィンスクール、みたいな人達にも教えているけど、そこから波乗りに入ってくる人もいます。


■高校3年で始めたサーフィンが仕事に繋がった

僕は東京で生まれて、高校三年の頃に鵠沼でサーフィンを始めた。その頃はサーフィンブーム。サーフィンやっていればカッコいいなんて時代。暴走族の先輩がサーフィン始めて、車高の低い車で爆音たてながら鵠沼とか辻堂とかを走り回っていたハッハッハ!
僕もレッグというお店で2万円くらいの安ボードのセットを買って始めたんです。ウェットスーツまでは買えなくて、でもあまりにも見窄らしいから黒のTシャツと黒の海パン履いて、遠くから見るとウエットに見える工夫をした。寒いけど見た目が大事!とそんなことやっていました。その後丸井でビーバーテールのウエットを買いましたけどね。
学生時代から下田の民宿旅館でアルバイトしながら波乗りやっていた、源さんと知り合ったのもその頃ですよ。大学生の頃は夏だけこっちに居たけど、4年で卒業できなくなって5年目は1週間に1回か2回しか大学に出なくて良いから、こっちにいる方が多くなった。源さんとはその頃からだから長いですね。白浜荘って言うところにサーフショップがあったんですよ、オーナーが源さんに進められ、ゴッデスの鈴木正さんが協力して作った店の店番をやっていたんですよ。6〜7年やってそこをやめた後ここへ来てショップを始めたんですよ、店番しながらいい勉強させてもらいました、自分で一からだったらきっと駄目だったでしょうね、源さんにもとても助けられましたよ。


■白浜の波

この辺は探せば波乗りできない時は無い。白浜が良いと多々戸がオンショア、多々戸が良いと白浜が駄目みたいに。ここは東伊豆なんですが、東伊豆で風が吹くと西伊豆で波が上がるんですよ。西風でオンショワでも西伊豆は風波でサーフィンできる。白浜は外房のうねりが入るし多々戸は沖縄のうねりが入る。南から北まで拾える恵まれた所です。ただサイズだけは不満ですね。ここは東のスエルが入っても、大島とかでブロックされて沖にテトラが入ってるように遮られる。スエルが回り込んでくるときにブロックされる。北のスエルが回り込むと千葉にも無いくらいの良い波が入ることもある。不思議な所です。
僕は、今日は良いなって時にはいります。午後は風が変わってオフショワになるなんて聞くと早起きしてね。今朝はショートでしたが、ロングにも乗りますヨ。ここの波の良いときはクローズ気味のワイドでロングじゃ乗れない、シュートでドルフィンスルーじゃないと出られない。パワーもあるからロングじゃ折れちゃう。


■ショップ経営の苦労と楽しみ

サーフショップのお客さんは減っていないですね、でも財布の紐が堅い。大会に出る人も減ってきた。昔は大会に出るたびに板を替えたり新しい滑り止めが出ると替えてみたりフィンを替えたりと、コンテストやっている人は毎年替えるんですよ。今は皆エンジョイするのが目的でサーフィンしているから道具にあまりこだわらない。これが本来の姿なんでしょうけどね。競技志向の人も残っているし、楽しみでサーフィンする人は増えているだろうけど、商売的にはあまり良くないですよ。だって道具が良くなってきたせいで同じ板に5年でも10年でも乗っているし、パワーコードだってなかなか切れないですもん(笑)。昔はリ−シュにヒビが入ってすぐに駄目になった。
年に一回、同年配とサーフトリップには行きますよ、モルジブとか。最近は中国の海南島と台湾。でも中国は大失敗!波がないから毎日朝から円卓で中華料理とビール!台湾は食事が美味しいし波も当たりましたね。頭ちょっとで充分楽しめました。メンタワイとかスマトラとか、同年代の50前後の業界の仲間やメーカーの人とかで行くんですが、船の上だから喧嘩もできないしサーフィンのことしか考えていないから楽しい旅ですよ。
僕は東京に生まれて育ったから海の側に住みたかったんですよ。20代から30代はサーフィンやるためにはどうしたら良いかしか考えてなかった。ここに住むようになって、いつもサーフィンが出来る幸せを宝にしている。仕事をしていても、それだけは忘れないようにしている。成功してお店を増やすとかより、初心を忘れずにここでがんばる。忙しくてサーフィンが出来ない環境に自分を持って行きたくないから。それがこっちに移った最初の目標だったし大切にしたい。
インターネットのおかげで地方にいてもハンデも感じなくなったし、まして目の前がゲレンデ。ここから情報を発信していけばいいと思うんですよ。
店の有るこの場所は風が強い吹きだまりの様なところで、昔は国道も無く個人の持ち物だった。北東の風が吹くと砂がばんばん飛んできて、50年くらい前までは砂丘!年寄りに言わせると、あんな所に誰も住まないって!ハハハ・・・。お店の上にライブカメラを二台つけてホームページで観られるようにしている。みんなそれだけ観て帰っちゃうみたい。店を始めた頃は波の情報が知りたい人から電話がばんばんかかってきて仕事にならなかった。ホームページで朝だけ波の情報を入れたけど、今度は昼の情報を知りたくてかかってくる。写真を撮って朝と昼に載せたけど、それでもかかって来た。それでついに今のライブカメラにしたんです。波の情報を見にホームページに来てくれていいんだけど、商売につながらない。ハハハ!

太郎さんに出会わなかったら今サーフィンやっていたかどうか分からないね

金指源二通称:伊豆のゲンさん63歳

■サーフィンとの出会い

昭和39年6月オリンピックの年に白浜の海で弟と遊んでいた時、日本サーフィン連盟を作った高橋太郎さんがウエスタンの仲間8人くらいとボードを持って国道から出てきたンですよ。後ろに舵みたいなのがついた変な物を持ってきたなって思って、ずーっと見ていたンですよ。30分くらいしたら一人が海からあがって来て「この近くに泊まるところがないか」って聞いてきた。当時はこの辺に宿泊するところは無かった。実家が白浜神社の前にあって、昔は10畳の離れがあって学校の先生が下宿したりしていた。帰って親父に話したら「空いてンだから泊めてやんな」って言ってくれた。太郎さんに話したら喜んでくれて、下田に飯食いに連れて行ってくれた。帰ってから太郎さんのグループがワイキキでサーフィンしている8ミリを見せてもらったンですよ、ものすごく感動したね。 太郎さんたちが帰る日に「宿泊代金はいらない」と親父の言葉を伝えたら、「じゃボード貸しておくからやってみな」って置いて行ってくれた。それからはまっちゃったンですよ。だから太郎さんに出会わなかったら今サーフィンやっていたかどうか分からないね。 それから3年くらい経ってから太郎さんが白浜に来た帰り、車で東京に帰る途中で営業をするから良かったら一緒にボードを見に行くか?て連れて行ってくれた。茅ヶ崎の長谷川家具屋さんに行ったら今のゴッデスの鈴木正さんが店員でいてサーフィンコーナーを任されていた。当時は頭を七三にわけてサーフィンをしない普通のサラリーマンだった。それから東京の太郎さんの家で一泊して次の日に電車で戻ってきました。そのときはまだ工場は無かったンですが、何年か後に外国でシェープを習って帰ってきてから始めたから日本の第一人者じゃないかな? マリブのボードが出来るずっと前のこと。その頃スケッグ(フィン)はベニヤに樹脂を塗って作っていて、ストリンガーもすごく厚いし、レールもすごく厚いから重くてね。


■仕事

高橋太郎さんが茅ヶ崎のゴッデスを立ち上げて、僕はその時の一期生なンですよ、太郎さんのところに二年ほど住み込みでいてスケッグを作っていたンですよ。クロスを何枚も貼り合わせて固まる前にベニヤの型に合わせてカッターで切るンです。そこは二年くらいで帰ってきて白浜にGENJIサーフショップを開いたンですよ。 あるときTEDの阿出川さんがマイク・パーパスって言う外人サーファーを連れてきてしばらく預かってくれと託されたンです。当時のスタープロサーファーで外国の雑誌でしか見たこと無い人に家でいろいろ教えてもらった。そこにカメラマンの佐藤傳次郎さんがやってきて、サーフィンマガジンの記事にすると言って写真を撮って行ったのがこの写真。 しばらく白浜でサーフショップやっていたけど、当時はサーフィンがそんなに普及していなかったからサーフショップをやめて磯料理店をやったりライダーやったり、いろんな仕事をしましたよ。ペンションは37歳で始めました。夏が終わると毎年20日間くらいバリに行っていたンですよ、だからこのペンションのアンテックな家具はその時に買って船便で送ったもの。このペンションの設計も最初建築会社が持ってきたのが可愛過ぎるので、自分でやった。二階は真ん中を吹き抜けにしてどの部屋からもトイレとか洗面所に行きやすくなっている。 今でも地元のサーフショップのライダーやっているが、その店のオーナーはいつも一緒に波乗りしている若い人。私の波乗りをいつも見ているからボードスポンサーになってくれているのだろう。そんじゃなきゃこんな60過ぎたのにボード出さないよ。ウエットは岡君のラッシュがスポンサー、白浜に来るとかならず顔を出してくれてウェアーとかタオルとかいろいろ持ってきてくれる。毎年ウエット変えるのに最初の頃は岡君と直接やっていたけど、今はショップから直接もらう。 (笑)


■サーフィンに燃える

サーフィンと出会ってロングやってショートやってまたロングやって、今でもまだまだ燃えているっていうか、ほんとサーフィンは奥が深い。 続けるために毎日朝4時に起きてストレッチして3キロくらい歩いて、帰ってきてからペンションの支度をしますね。俺がショートに乗っているのを知っているのは白浜に来て見た人くらい、あまり知らないんじゃないかな、ワハハハ! 太郎さんは今もサーフィンやっているかな・・・・。

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体力に自信があるから80まではサーフィンをつづける。

東京都福生生まれ、茅ヶ崎在住。佐藤信雄さん59才

■ ヨッチャンとの付き合い
桜井喜夫と出会ったのは19才の連休に今のカミさんと新島にサーフィンに行った時だから40年の付き合いですね。それ以来ヨッチャンとは毎年1〜2回30年近く新島に通っては同じ民宿に泊まるようになった。 高校2年で波乗りを始めて、すっかりサーフィンにはまっちゃいました。 ヨッチャンは2月のいろりを囲む会と7月の海開きに茅ヶ崎に来て、秋には茨城のアンコウを食べに行ったり、僕が新賀に遊びに行ったりと、結構密に会うんですよ。 ヨッチャンは誰でもウエルカム、でもハンパすると「お前!何やってんだ!」と怒られる。これが結構恐い。でもヨッチャンを悪く言う人はいない。僕なんか兄貴と思っていますから。


茅ヶ崎という町

茅ヶ崎でサーフィンをしたのは高校三年の時、その時は台風で波も大きかった。浜の海の家にたむろしていたバーバリアンて言う店の人たちが僕にロングボードを貸してくれて入った。 波乗りしたくて、大学を2年で中退していろんな仕事をした。お金がすこしできて、昔はメインストリートだった加山雄三通りにランプという喫茶店を作った。アンテーク調のお店で、南義隆や東京からいろんな人が来て楽しかった。朝起きたら隣に安岡力也が寝ていたりした。(笑) 茅ヶ崎は人に優しい、良いところです。普通はよそから移ってくると余所者扱いされるのに此処ではそんな事が無い。たまたま知り合った人が良かったのかもしれないけど、初めてここに来た時から茅ヶ崎って良いなーと思った。以来ずっと住んでいる。 昔はこの辺も毎日波が立っていたんですよ、この前のシラカバって言う浜も2年くらい前から深くなっちゃってほとんど波が立たない。サザンビーチのカボチャポイントは台風が来るとレギュラーのものすごい波が立つんですよ、チューブ巻いて。 (笑)


海の家

僕は内装会社やっているんだけど、従業員がしっかりしているから仕事しなくてもいい。(笑)6月から海の家を建て始めて、7月オープンで9月に片付け。一年のうち3ヶ月は海にいてサーフィンしている。
海の家はデザイナーの中野弘道と毎週海で会ってビール飲んでいるうちに、海の家っていいな〜!やっちゃおうか!て事になって、中野がお金出してくれて、海の家は僕が作った。それからは海の家にはまって新島に行かなくなっちゃった。仲間が来て波乗りしてシャワー浴びて、波見ながらデッキでビール…・これが楽しいです。
7月の海開きの日、海の家のオープニングは凄いですよ。この辺のサーファーがほとんど集まるし、茨城、千葉、静岡からも沢山集まってきて賑やか。


サーフトリップ

昨年の2月にスリランカにサーフトリップに行く予定だったけど、内戦になって観光が入れないから6月のモルジブにした。10日間毎日波乗り。 プロサーファーからヨッチャンや清野とかの年寄りサーファー、カメラマンまでみんなバリバリに上手い。楽しかった! とんがらしマークのオーストラリアのシェーパーの板6,6.9,6.10の三本を持って行くんですよ、ロッカーのきつい板で歳だから跳んだりはねたりはしないけれど、けがを覚悟でチューブですね。 今までで一番の波はフィリピン、シャリガオのクラブナイン。アフターリーフが沢山あって、人がいない。そこに波がないときは弁当を作って島の反対側にあるゴルゴスまで6時間かけていく。コテージも何もない凄いところで波はシャローでホレホレ、僕はエアーとか飛ぶのはやらないけれどチューブは簡単に入れる。リーフが見えて落ちたら足がズタズタになるような所。そんなところで僕も足切ったけれど医者がいないから、アロンアルファとバンソコで止めた。確実に出て来られないとやばいですよ。でもあのブルーの土管に入っている感じ、凄くきれいですよ。ピークからチューブに入らないでグーフィーから入ってレギュラーで出てくる、スピードが違う。波の力があるから何でも出来る、自分が上手くなったように感じられる。


波乗りの楽しさ

恐怖感が好きで、大きいのに乗ってボトムまで降りてターンする。そんなスタイルで全日本でも台風の大きな波の時にファイナルまで残っている。頭くらいでは全然駄目、浜松の時もみんな川から出て行って前の小さいのに乗っているのに、僕は正攻法で出て行って大きいのに2発乗って、あと一つが乗れなくて勝てなかった。
全日本の大会に出てファイナルに残って、そこで全国から集まった仲間と飲むのが楽しい。サーフフィンは好きだけど僕はプロになるほど上手くない。プロになるには他の人よりグンと秀でていないと駄目、そんな人は光るモノを持っている。僕は遊びの延長線でやっている。
一応ロングは持っているけどやっぱりショートですね。それからデカイ波が好きだから「9のガンに乗ってかぶ根!」が好きなんですよ。かぶ根に波が立つ日は、ウエット着て軽トラックで出かけて行って、濡れたまま帰ってくる。
大崎のグーフィーとかぶ根がダブルラインで繋がって、今までに見たこともない凄い波が入った日が有った。ヘリコプターが二機救助に来ていた。8.2のガンに乗って4時過ぎまで入っていたら、そこにセットが入ってきて沖に潮が流れ、これはなかなか帰れないって思っていたら、10フィート以上のお化けが入ってきた。これは乗るしかないってボトムまで降りていったらいきなりボキッ!て板が折れて背中を海底の岩に思いきりぶつけた。その時はもう死ぬかと思った。
中学から色々やってきたけどサーフィンにまさるスポーツはないですね。スノーボードなんかある程度同じ条件で練習が出来るけどサーフィンは潮が引いたり上げたり風が吹いたり、いつも同じ条件じゃない。だから、行き着くところ
が無い。でも歳をとると体力が落ちるから維持するのが大変。ヨッチャンは60過ぎても体力維持して海に入っている。海に入らなくなったら乗れなくなっちゃう。カボチャでこの辺の年寄りの大会があって、優勝しちゃった。なにしろ何十年もやってるホームグラウンドだから癖が解るんですよ。
体力があるから80まではサーフィンを続けるよ!


「ショートをやめるときが波乗りをやめる時」それが自分のポリシー」

桜井喜夫 昭和21年ビートたけしと同じ足立区梅島生まれ
千葉に吉田さんって人がいるんですが、吉田さんがやめるまではショートを続ける。ショートで千葉の頂点に立とう思っているけど、なかなか元気なの。(笑)
もともと海が好きだったけど、たまたま見た「波乗り」って言う本がきっかけでサーフィンを始めた。最初の板は月賦の店で買った。板は高いから、上手くなればライダーになれるだろうと思って一生懸命がんばった。それから波乗りにはまっちゃって、35年くらい前に辻堂から千葉の大東にメインを移し、毎週末に通ったけど、早く上手くなりたくて勝浦に家を借り、それからずーっと勝浦。
千葉のあちこちで家を借りて住んだ。今の大家は壊れるまでいて下さいって言うからシンガに落ちついた。昔民宿をやっていた家だからデカイ。その辺は東京から来ているのが多くいて初め地元にいじめられていた。オレが飲み会やって仲良くなって今は和気あいあい。


■お金がなくてもサーフィンはできる
ライダーだからってお金はもらえない。板とウエットとウエアーだけ。食べる為に勝浦の農協で一日三食ついて3000円の椎茸の栽培を手伝った。木を切ってドリルで穴を空けて椎茸の種を入れて山に並べるの。
同じ時期に米運びも手伝っていて、米の検査を見ていたら検査した米をパッと床に捨てちゃうの、勿体ないでしょう。次の日からここに捨ててよってバケツを持って行ったら一ヶ月で10俵にもなった。そのバケツは結構活躍して、その頃はサバもイワシも沢山とれていた時代だから、漁業市場に行くと待っていてくれてバケツいっぱいに魚を入れくれた。それをさばいて海水につけ、美味しい干物を作ることも教えてもらった。
ビクトリーの和泉さんって人が千葉にお店を出すから手伝ってくれって言われてはじめて波乗り関係で3万円のお金をもらったことが有ったけど、僕はそういうお金をもらうと飲みにいって一晩で無くなる。だから皆が家に泊まりにきて帰るときに千円とかなけなしのお金を置いていく、一週間それで食いつなぐの。ほんと、友達に助けられた。今はもっと助けられている。(笑)
根がバカだから波乗りだけやってきた。免許も無い、携帯も無い、お金も無い。お金が有るのが良いのか無いのが良いのか解らないけど、今62歳。あと何年でも無いから最後までこの暮らしを通すよ。ノホホンと波と遊べるのが一番。天国にお金は持って行けないからね


結婚式

実はオレ56歳で結婚したの。女房とは24歳離れてる。前から付き合っていたんだけど、大腸切って入院したときに毎日親身になって看病してくれた。それである日、病院のベッドでカーテン引っ張って「結婚したい」ってプロポーズしちゃった。身内だけ集めてパーティーでもしようと思っていたら、親友から「もう少し派手にやれよ!」と言われてニューオータニにしちゃった。ニューオータニにはブライダルにも料理の方にもサーファーが沢山いるの。お金一銭も無いので後払いでも良いかって聞いたら、後で良いって言うからね。300〜400人の招待予定で始めたその準備が大変だった!
ホテルってすごく何でも高いのね、でも色々と無理を言って安くしてもらった。
引き出物は、陶芸教室に通っている友達にぐい飲みを500個作ってもらった。入れる桐の箱は大工の友達に、それを包む布は日暮里の生地屋の友達に、手提げ袋は銀座天賞堂につとめている友達にそれぞれ作ってもらった。
全部打ち合わせを済ませてフィリピンへ雑誌の仕事で行ったの、そしたらある晩に女房からFAXが入っていて、オータニから式の代金の一部300万を払うように言ってきていると書いてあった。女房もお金が無いから泣いている顔のイラストが描いてあったよ。(笑)帰ったらなんとかするから一週間待ってくれるように言った。友人で金貸ししているのがいたから、500万円借りてニューオータニに行ってドンって払っちゃった。
結婚式は、ニューオータニ初の飲み放題にしてくれた。サーファーは気取ってめかし込んでくる、だからスタッフは全員アロハにして気楽にやってくれってお願いして、フロアーのスタッフに10万円、調理場に10万円を渡したら、料理長がスタッフにも心付けしてもらったのは初めてだってお礼を言いに来た。
うちの親父の教えは、遊ぶなら徹底的に遊べ!中途半端な遊びは止めろ!お金が無くても有るだけ使って遊べ!っていうの。(笑


海外サーフィン

海外の海に行き始めると長いの、フィリピン13年、ハワイに6年、バリに10年くらい、通っていたけど賑やかになってきてイヤになってやめちゃった。スリランカに家を建てた友達に呼ばれて行ったら2年くらいで湾岸戦争が始まった。それでも15年ズーっと通って、スリランカの新聞にも載って有名になっちゃった。
もう海外はやめて日本に居ようと思って最後にマニラに行ったの。セブに飛んで船でスリガンって所に行ったら波の宝庫。今日は波が多いから掘れる波でやろうとか、今日はゆっくりファンウエーブ乗ろうかとか色々選べるし、物価は安くて1ヶ月1万円で生活できる。ビーチのはずれにあるマーケットがトタン屋根によしず、雨が降ると雨漏りするから慌てて皆で片付ける。そんな所だから直ぐに友達が出来て、家に呼ばれて仲良くなる。俺は英語を全然しゃべれないけどヘッチャラ、ボディランゲージで付き合う。


海岸の変化

天気が良くて面が良い日にのんびりと波乗りしたいから、オンシュワではやらない、千葉は探せば何処かに波が有るから。天気図を見て行くけど皆いるのよ。今は30分したら皆来ちゃう、それも良いんだろうけど変わったね。今の時代に生まれて波乗りしているのが幸せなのか、昔のように良い板も情報も無かったけれど、人工的にいじられていない波に乗れるのが幸せなのか…?
大原は防波堤が出来て変わったし、鯵ヶ浦の浜なんか観光バスが浜に入れるくらい広かったのに、日立港を造る時に砂防堤を造って流れが変わって砂が全部持って行かれた。砂を入れるけど、また持って行かれる。テトラ入れなくても自然に地形は変わるけど、あんなに激変しないし変わってもまたいつか戻る。部原もテトラを入れたせいで夏は南風が吹くから付いて、冬は北風が吹くから掘れる。計算して入れているのだろうけど、自然には勝てない。
25年間通った新島は、始めて行った頃は人も居ないし波も良かった。ダイハツミゼットにボードを乗せて草むらを掻き分けて浜まで行くと、目の前にすごい波が立っていた。未だに脳裏に焼き付いている。でも今は波が無い、新島の白い砂をゴルフ場用に使いだして無くなった。


人や波との出会い

波乗りは、この年でも夢中だ。最近は僕の周りで入院したり亡くなったりするヤツが多いから、よけいガッツいて波乗りしちゃう。(笑)
波乗りって毎回開眼なのよ、今日は腕上がったなって思っても一週間経って行くとまた前と同じ、やってもやっても終わりが無い。スキーだとあのギャップをもう一度滑りたいと思えば滑れるのよ、でもあの波にもう一度乗りたいって思っても同じ波は無いからね。波は午前と午後でもガラッと変わるから、それに合わせた波乗りしないといけない。でもそれが楽しい。板が合わないなら波に合う板を作るとか、今は良い板がいっぱい有るから作らなくなったけれど、自分所の若いのにはどういうテールが好きなのか見つけろって言う。自分の乗り方にあったテールが有るはず。10人10色、立つポイントも皆違うから結論は出ないけど探す事が大切。
波乗りしていなかったらすごく寂しい人生だったと思う。一つの物を追い求めてやって来たから良かったのかも。波乗りが有るから若いやつとも話せるし付き合いの巾も広がる、遊ぶなら沢山の人と遊んだ方が面白い。
波乗りも人とのつき合いも自分から飛び込んでいかないと駄目。すごい波だからって目で見て入るのを止めるとか、向こうで楽しそうな事やっているけど知らない人だから入らないとかは駄目。勢いつけて入って行くと向こうから友達になってくれたりする。飛び込んで行かないと何も始まらないのよ、一回飛び込むと分かるし友達も出来る。


 

東京のお台場で22年間ウインドサーフィンの施設EHUKAI BEACHを経営。

成尾 均 東京都出身
学生の時は山をやっていて山岳クラブのデポ隊(登山サポーター)の手伝いもやっていました。その時に雪崩に遭って仲間五人が亡くなりました。それでがっくりきて山をやる気をなくしていた時にTEDにいた館野と知り合いサーフィンを始めました。それがサーフィンとの最初の出会いでしたね。


大学の時にTEDのライダー。
21才の時には勝浦の松部に家を借りて毎日サーフィンをしていました。新島の都知事杯に1回目から出て3位に入賞し、23才の時にハレイワでやっていたマーボーロイヤルで優勝した。ハワイに一年あまり行っていて帰ってきたら、土木関係の仕事をしている親父からそろそろ仕事をしろと言われた。そのとき一部上場会社に就職は決まっていたけれど、どうしてもサーフィンしたいから1年だけサーフィンをやらせてくれって家を出ちゃった。で、またハワイに行って人生がガラッと変わった。帰ってきたらプカシェルが大ブームで30本ほど持って帰った物をアメ横のショップが現金で買ってくれ、それが商売の始まりかな。


25歳で大井町にキッドサーフというショップを開いた。
その頃はサーフィンが右肩上がりの時代だったから結構忙しかった。僕のところから分かれてショップを始めたのが何人かいる。サーフィン人口が100万人に増えるまではすごいブームで暴走族がボルトでボードを屋根に止めて走っていたり、僕が16才の頃は青春の登竜門みたいに一回はサーフィンやらないといけないようなそんな時代だった。だからルールも何もなく一つのダンパーの波に何十人と乗っちゃうような飽和状態のブームが続いた。でも突然ガタガタとブームが去っていった。今はウインド人口が30万人、サーフィンは80 万人くらいかな。


ウインドがロサンゼルスのオリンピックの種目に。
どんどん下から若手が出てきて、自分がプロとして出来なくなった頃、そろそろウインドでも始めようかと考えるようになっていった。丁度ウインドがロサンゼルスのオリンピックの種目にとりあげられて流行ってきた。でも俺は初めウインドを馬鹿にしていたの、ただ乗ってさ水の上を走るだけじゃないかって。でも湘南や房総の仲間もみんなウインドをやっていて、僕も阿出川さんに教えてもらって少し乗れるようになった。始めは全然乗り方が解らなくて時間が掛かったけど、それを越えると面白さがわかってくるんだよね。


フィリピンでビーチリゾートをオープン。
その後知り合いの松沢さんがフィリピンでゴルフ場を造るって話を聞いて、仲間とみんなで遊びに行ったんです。そしたらそこにはレギュラーの良い波まで入っていた。みんなで相談して資金を集め3万坪の敷地に10棟のコテージとレストランのあるプラランビーチリゾート始めたんですよ。谷になっていて水源はあるしいい波は入ってくるし、サーフマガジンの編集長とかプロサーファーが来て、みんな最高だよと言ってくれた。でもマルコスが亡命して情勢が危なくなってきたから、三年でそこを放置して日本に帰ってきたんです。


お台場にウインドの施設をオープン。
その頃にたまたま寄った台場は、周りに建物はなく海を挟んだ正面に東京タワーが見えて海の科学館があるだけ、海にウインドがばんばん走っていて、東京のど真ん中にこんな所が有るのかって驚いた。22年前鈴木都知事がその台場にウインドの施設を造るって聞いて、知り合いのツテでその施設が借りられてウインドの仕事を本格的に始めた。タイミングだね。他の人が先に始めても不思議はなかったけどホントにタイミングが合ったんだね。フィリピンでリゾートをやっていなかったらそんな感覚は無かったと思う。その当時の台場は海上に50艇以上がいて,砂浜には100艇以上のウインドが置いてあるという状況。すごいメッカだったからね。12年前から周りに商業施設やビルが建って以来あまり風が入らなくなった。ここも22年だから歴史があるよね。 若い子供には道具が大きいから、車がないと移動できないし大変なスポーツだけど、カヌーとウインドと両方を楽しめる場所が台場にあるんだから、近くの学校の授業にしようと話を進めているところなんだ。小さい子供に水遊びの場所を提供したいと思っている。


サーフィンやるなら一からやり直す。
みんなからサーフィンをやれやれって言われ、知人主催のオールドマンコンテストに行った時、シンガの頭位の波にゲッティングってこんなに辛かったっけって思った。不細工なところを見せたくなかったからコンテストには出ず、上がって酒飲んでいた(笑い)。サーフィンやるならゼロからやり直したい、中途半端はやりたくない。アラモアナで昔見かけた風景だけれど、白髪頭の爺さんが波を見てパッと海に入っていく、良い生活だよ。東京湾でもそういう波が立っていたら僕もああなっている。サーフィンの後のクリアーで何もない感覚、そんな感じのスポーツは他には無いよね。


●次回は桜井喜夫さんを予定しています。 ショートボードに乗っている現役で一番古いサーファー。錦糸町に住んで、毎週末はシンガの家でサーフィンをしている。

世界基準のジャッジが揃えば、世界で通じるサーファーも出てくると思う。

小川昌男  昭和32年鴨川生まれ


実家は鴨川の海の前でホテルをやっている。
サーフィン競技のジャッジは僕がシェ−パーだから続けられるんですよ。
試合のスケジュールに合わせて、その前後に仕事を振り分けければ出来ますからね。シェーパーは30年くらいやっているかな。鎌倉に移る前、鴨川にいた時はほとんど100%プロサーファー。乗ることでお金を得ていた。    
最近ではジャッジとして日本で一番初めに僕の名前が出てくるようになりました。JPSA(日本プロサーフィン連盟)という団体があって以前はそこでジャッジをやっていたんですが、そのころ日本のジャッジと世界のジャッジに開きが有ると感じていた。点数の出し方が世界と違う。日本はジャッジが悪いからうまいサーファーが生まれないじゃないかと…・。ジャッジがサーファーを採点する時、海外ではAが上手いと採点するのに、日本ではBが上手いと採点する。そうやって評価された選手が海外の試合に出て行って勝てるわけが無い。
フラダンスのコンテストに盆踊りの上手い選手を送り出しているようなものです。
当時のJPSAの理事の人にジャッジを何とかしてくれと言われて、ただ好きでやってるだけじゃ無く、ちゃんと仕事としてやらなければいけないと思ったら抜けられなくなった。(笑)自分の経験を伝えてジャッジの教育をすることも必要だし広めていかないといけない。試合のたびにローカルジャッジに世界基準を教えることで、次にその人が他の人に教える。そうやって地道に日本中に広めていきました。
そんなことをやってる内に、僕自身がジャッジとしてもっと勉強しないと始まらないと思い、オーストラリアやアメリカにいきました。三年くらい前まで主に海外の試合を回っていました。丁度ASP(世界プロサーフィン連盟)の組織の中で世界の試合を回っていたのでASPから日本の役員になってくれと言われ、日本のJSPAの活動を止めASPの仕事に就きました。
ジャッジは良いサーファーであることが必要ですよ、今までのサーファーとしての経験と実績をもとに採点しています。選手に対し厳しい点を付けているジャッジがあまりへたくそだといけないからね!(笑)
鴨川に自分のシェープマシン工場があって、そこにコンピュータで作ったデータを送るんですが、それが貯まると二週に一度くらいの割合で鴨川に行き、その時サーフィンをします。茅ヶ崎がサーフィン発祥の地と言われるけれど、鴨川もみねおか山と言うところにレーダー基地が有って、そこの基地の米軍サーファーが鴨川で始めて50年くらいの歴史が有るんじゃないかな。僕の家も6人兄妹の皆がサーフィンをやってたんです。僕はもう40年もサーフィンしてるけど、僕が始めたときは他の兄妹はもう止めていたんです。だから兄妹とは一度もサーフィンしたことが無い。鴨川にはそれくらい古い人が一杯いて、サーフィンの歴史はかなり古いんですよ。
僕は今年からツアーマネージャーの仕事をしています。試合を組み立てたり、進行から何から何までやります。子供達の指導は日本の未来のため、チョットかっこ良すぎますが(笑)、強い選手が出て来てWTC(世界で一番上手い44人)のツアーに入れる選手が一人でも出て来てくれると違うんですよ。良いところまで来ていて、本当にうまい選手がいるんですよ。世界のトップまではいかないけど、WCTの44人には十分入れるだけの実力を持った選手。でも層が薄いかな。もう少し人数がほしいな。そうすれば何とかなるんだけど。
僕はジャッジ講習をやっているんですよ、でも日本の場合ジャッジの給料だけでは食べていけないし、そういう仕組みも出来ていない。おそらく家族が居たら僕みたいに別の仕事をやって生計をたてなくてはジャッジを続けられない。ブラジル人のジャッジは世界中を回ると家が立つと言われるけどね。世界で通じる未来のプロサーファー達の為にも、そのへんが改善されることも必要ですね。

いまは、人と遊ぶよりもっと海と仲良くしたい。

赤井得士 サーフ1編集者
東京都大田区生まれ 44才
17歳の時に辻堂でサーフィンをはじめました。友人がサーフィンをやっていると聞いて、バイクで海まで遊びに行って始めて体験しました。その時は初心者に優しい波で最初の30分位で波に乗れて、波の斜面を滑る感じが気持ちよくて完全にハマりましたね。それからは毎週末にサーフィンに行こうと、中古の板を探しました。先輩から5000円で中古のウエット、10000円で中古の板を譲ってもらいました。友人のおじさんの別荘が辻堂と鵠沼の間にあってその別荘の小屋に友人達はボードをおかしてもらっていたんです。電車で行ってボードを出して目の前の海でサーフィンする。恵まれていますよね。そこで僕もサーフィンを覚え、兄貴をサーフィンに引っ張り込んでからは、車でよく行くようになりました。その後はサーフィンを続けて行くために海に近い職業を選びました。小田原の福澤さんや鎌倉の抱井さんは、僕からすれば正当な根っからのサーファーだと思いますよ。僕の場合この仕事についたのも、たまたまなんですよ。横須賀の会社に勤めていたけど辞め、27才の頃はブルーワ−の工場でサンディングバフの仕事をやっていました、でも何年もその仕事をやっていこうとは思わなかった。
アルバイトをやってはバリやオーストラリアに行く生活、32才までフリータ−でしたよ。でもサーフィンは続けたいと思っていた所に鵠沼のビーチカルチャーというサーフィン関係の輸入の会社から新しいサーフィン雑誌を立ち上げるので編集を手伝ってほしいという話がきたんですよ。僕は編集の仕事なんてやった事無いけれど、サーフィンの世界がどうなっているのかをアドバイスしてほしいと言われ、以来それがきっかけでこの仕事をやっています。
思い出に残るサーフィンはタヒチとかニューカレドニアかな。僕たちがサーフィンをしているところにフランス人がデカイ帆船でやってきて「ボンジュール!」といって親子で海に飛び込んできてニコニコしながらサーフィンしていたり、港に帰っても帆船がズラッと停泊していて、みんな優雅にお洒落していた。それに比べて日本人は貧しいなって思っちゃいましたよ。(笑い)
海仲間の友人は少ないですね、仕事に絡んでくるから自分から作らないようにしているのかも、でもその前に自分勝手だからサーフィンが出来ればいいというのがベースにあるかな。人と遊ぶよりもっと海と仲良くしたい。それと家族が出来たから海と仕事以外は家族との時間にしたい。
今の仕事はこれからも続けますよ。2年前まで東京の高輪に編集室があったんですが、四年くらい言い続けてようやく逗子に編集室を移したんですよ、恵まれた職住接近です。子供はまだ小さいのでサーフィンはしないですが、僕が海にいくその後ろ姿を見てやりたいって言ったら一緒にサーフィンしたいですね。
赤井得士のブログ
「得♪のサーフィン系100選」

 >> http://www.hobidas.com/blog/surf1st/world-peace/

死ぬまでショートに乗っていようと思う

福澤 浩
昭和33年川崎生れ
 僕が抱井さんに会ったのは、17歳で学校をやめ、茅ヶ崎のゴッテスのサムライというウェットスーツファクトリーで働いていた時、抱井さんが鴨川から移ってきて、そこで始めて出会いました。髪はすごいロン毛でなかなかエキセントリックな感じでしたね、サーフィン三昧の毎日でしたよ。抱井さんは茅ヶ崎のゴッテスからドロンズそしてブリューワーのライダーに変わって、2000年からKシェープを始めたけど、僕はそのドロンズの頃からズーッと抱井さんのウェットを作っています。その頃に抱井さんの勧めでデュースを立ち上げました。32年の付き合いですから長いですね。青森や伊良湖や千葉とかあちこち一緒に旅行しましたよ。
 ウェットを始めたきっかけは、サーフィンに関わる仕事をしていればズーッとサーフィンが出来ると思って・・・それがたまたまウェットだった。ウェット作りで一番難しいのは型紙かな、元型に採寸した物を合わせて作っていくんです。これからノージップの素材の良いのやベルクロの伸びるのがあればウェットはもっと良くなると思います。
 サーフィンを始めたのは兄がサーフィンをしていて、連れられて鵠沼に行ってからです。面白くなっちゃって夢中になりました。そのうち、いつも車で連れて行ってくれていた兄から電車で勝手に行けと言われ、高校三年の頃から電車で行くようになったんです。20代の頃は僕もサーフィンを頑張ってやっていて大会にも出ました。そのころから酒匂に住んでいたけど、よそで大会に出るより、ここでサーフィンしていた方が良いみたいな素晴らしい波が立つところなんですよ。
 いまここ WESTSIDEの数年分のビデオを編集しているんですよ、いつかDVDにしたいと思っています。この辺は年中良い波は無いんですが、台風とか低気圧とか要素が揃うと素晴らしい波が立つんですよ。ビデオの陸撮りは三年前から、水中は一年半位前から始めました。波が良い日は乗らないで泳いでいても気持良いですよ、波乗りしているようです。このあたりは相模川を渡ってこちら側の人の道場みたいなところなんです。水中撮影は知っている旨い人だと目の前まで来ても安心なのですが、知らない人は信用できない(笑)。だから恐い事もあります。
 昨年仕事が凄く忙しかった時、心臓が度々ドキドキするので医者に診てもらったらどこも悪く無かった。単に忙しくて海にも入れなかった事によるストレス性の病気だったようです(笑)。ときどきロングもやりますが、板は死ぬまでショートに乗っていようと思っています。ここの波はロング向きでは無いですからね。この仕事のおかげでこれからも海やサーフィンと関わって行けそうなので幸せです。

 >> http://www.deucewetsuits.com/

「ボードを作っている時は本当に楽しい、サーフィンしている時と同じくらい楽しい」

抱井保徳
1956年千葉県勝浦市生まれ 52歳
 僕なんかは鴨川の川井幹雄さんや川名孝夫さんや野村昭さん達からサーフィンだけじゃなく、カリフォルニアやハワイの話を聞きたくて焚き火の輪に積極的に入って行って聞き耳頭巾。サーフィンは良いな!世界は広いぞ!と夢を沢山植え付けられました。
  僕がサーフィンを始めたのは近所の守谷海岸で泳いでいる時にサーフィンしている人がいて、1968年に始めたけど最初全然乗れなくて、1969年中学一年の時からハマリましたね。岡野教彦はそのころからスターで全日本の大会プログラムにインタビュー記事が出ていました。プロが出来たのが遅かったから教彦と同期のプロになったけど、早い時期に出来ていたら教彦はとっくにプロでしたね。やっていることは1965年頃からプロみたいでしたから。俺は今大会にも出ていないし、公認料も払って居ないからプロではないですね。その分ヒマなので雑誌の仕事がよく入ります。取材でハワイやバリに行くけど、ひどい時は明日からインドネシアに行ってくれって来るんですよ。俺はすぐに動ける方だから旅行に行って記事書くっていう仕事もやっています。教彦もヒマだったら行くだろうけど…以前は教彦とは大会に一緒に出場しオーストラリアにも2回一緒に行ったけど、面白かったですよ。レンタカー借りてゴールドコーストからシドニーまで海岸沿いを2日間かけて下るんです。向こうのサーファーを見ながらカーラジオから聞こえる向こうの音楽に乗ってね。
  シェイプは自分のシェイプルームは持っていないので色々なところに出向きます。CHPの中村さんの所にも行きましたよ。湘南でも2箇所ほどで頼まれて削ります。一回に10本くらいずつ、結構大変で朝から晩まで籠もって・・でもいい波だと仕事が止まっちゃいますね。まだそれが許される業界だからやっていけるのかな。シェイパーにはそれぞれこだわりが有ると思うけど、俺の場合は乗りやすくて見て格好いいボード。ただ乗りやすいだけではダメ、流線型で誰が見ても格好いいフォルム、それですね。
  サーフィンライフの取材で教彦と写っているボードは、板削ってくれって言われた時、教彦が高校生で出場し優勝した全日本のイメージがバキッとひらめいて、その時の板を思い出して削って持って行ったんですよ。そうしたら教彦もその時のカラーリングを思い出して復元して教彦カラーのボードが出来たんです。ロゴも35年前の雑誌からコピーして和紙にプリントして作ったんです。
教彦がボードも乗り方もリセットしたらサーフィンが上手くなったと話していたそうだけど、長いことやっていると最初の頃の事を忘れてきて、大事なことを見失っちゃう事が有りますよね。ホント一番楽しかった頃のことを思い出すって大事ですよね。板を見ればどんな乗り方をしたらいいかピントひらめきますから、それですぐアジャストしてくれたんじゃないかな。乗り手が良いとホント苦労が無いですね。作り手冥利に尽きると言うことですかね。
  桜の木のてっぺんに乗って職人のおじいさんが枝払いをやっているのを見ると自分も80歳位までシェイプを続けようと思いますね、僕の目標です。技術的にはやることは一緒ですから多分出来ると思います。コンピュータシェイプが主流になっても、削れる人がいる限りハンドシェイプは無くならないと思う。テンプレートが無くても昔のテンプレートを組み合わせながらイメージで作る。作っている時は本当に楽しい。サーフィンをしているときと同じくらい楽しい。

 >> http://www4.ocn.ne.jp/~k-shape/

「血も細胞も、すべて波乗りからもらった

岡野教彦 おかののりひこ
1956年、東京都両国生まれ。兄、岡野孝親の影響を受けて、物心ついた時からサーフボードに乗っていた。18才で日本初のプロとなる。当時、まだ日本のサーフィンにはプロが存在せず、NSA(日本サーフィン連盟)の働きで全日本のトップクラスのmenとJr.が数人選ばれ、プロとして活動するようになった。日本のチャンピオンとなった1978年岡野教彦の元に、ASPの前身IPSよりオーストラリアで行われる世界選手権に、日本人のプロサーファーとして始めて招待状が届いた。日本のサーフィン史に残る歴史的な出来事だった。「プロとは言え当時はスポンサーがほとんどつかず、オーストラリアへの遠征費用の一部をchpの中村一巳氏から援助してもらったものの、残りのほとんどは自分持ち。サーキットを転戦することも出来なかった。それに比べると今のプロはスポンサーがすべてを負担してくれる。随分恵まれているよ。」海外の波を知り尽した岡野教彦の記憶の中で思い出に残る波は、ハワイでもオーストラリアでも無く、なんと日本。1980年ごろ地元の松部で一週間続いたすばらしい波、この波は当時のサーフィンクラシックという雑誌でも特集された程の波で、彼の一番記憶に残る波だと言う。「ショートボードからロングボードといろいろ乗ってきたけれど、またロングから順番にシングルフィンの昔の板に戻していったら、以前より波乗りが上手くなってきて、高いレベルで波乗りができるようになった。今は楽しくてしょうがない。」最近、スクールのコーチを熱心にしている。「プロに教える事も大切だけれど、初心者にサーフィンの楽しさを教える事が、波乗りを長いこと続けてきた俺が今やる仕事だと思う」

●次回は鎌倉のプロサーファー抱井氏をお訪ねする予定です。

「海は感動がいっぱい!」

小松久里子 (旧姓長井くりこ)
1971年3月31日千葉県松戸市生まれ。一宮在住の元女子プロサーファー、 現在小学校3年生、6歳、3歳の三児の母。19歳の時にサーフィンと出会いそれを契機に一宮に移住、23歳でプロに転向。27歳で現役引退する迄、数々の大会で華麗なライディングを披露、ファンを魅了してきた。そんな久里子さんの感動体験の一番目、茨城の鯵ヶ浦の膝腰サイズのクリーンな波で初めて横に滑れた時。二番目、プロに転向してハワイのベルジーランドに入り、初チューブに思いきり感動。三番目は同じくハワイのサンセット、6フィートの波でドルフィンが効かずびっくり、死ぬ程思いきり巻かれたこと…。去年、息子と行ったハワイで海亀に出会い、横を一緒に泳いで、またまた感動。海と家庭をこよなく愛して生活する久里子さん、最近一番下の3歳の子供が保育園に入り少し手が離れ、またサーフィンに没頭中。少しずつ感を取り戻しつつあるようです。「これからは家族みんなで、ずーっとサーフィンをエンジョイしていきたい。」by kuriko

photo by kumiko hirasawa

●次回はプロサーファー岡野紀彦さんを訪ねます。

「大切なことは、すべて海が教えてくれた」

中村一巳 なかむらかずみ。
1938年8月18日新潟生まれ。CHP株式会社取締役会長。1976年、千葉県一宮サンライズポイント前にchpサーブショップをオープン。中村さんがサーフィンを始めたのは24才の時。「アメリカで使われているようなトランクスの生地は当時の日本には無かった。アメリカ大使館まで行って生地の事を聞いたり、リ−シュコードにしても自転車で使うゴムロープを使って手作りしたり。とにかく何もない状態から始まってるから、作るためにいろんな事をしたよね。」1963年、カリフォルニアから日系のシェイパー、タックカワハラ氏を招いてサーフボード製造技術を学び、米沢プラスチックの協力を得て国産サーフボードの開発と販売を開始した、川井幹雄氏をテストライダーに迎えて歴史的な「マリブサーフボード」の誕生だ。1965年中村さんらが発起人になり、日本サーフィン連盟(NSA)を創設。第一回の全日本選手権が1966年に鴨川で行われ、本格的なサーフコンペが日本でも始まる。中村さんはこれ迄サーフィンを広める伝道師的活動や、サーファーたちへの助言やサポート、環境問題など、地道な活動に多くの時間を割いてきた。「これからもずっと海の近くにいて、孫と一緒にサーフィンをしながら、何かしらメッセージを送り続けたい、それは誰もやらないときからサーフィンをやってきた自分の海に対する恩返し、使命のような気がします。」

 

●次回は元女子プロサーファーであり、ご主人もサーファーで三人の子供たちもサーフィンを始めた。一宮在住の小松久里子さんを訪ねます。