サーフナッツ サーファーの輪

連載 surfers

久我孝男
1964年千葉県一宮生まれ
プロサーファー


波乗りを始めたのは小学4年の時でした。太東にまだ漁港が無い頃で岩場が長く続いていているような場所でしたね。太東って海しか無い半端ないド田舎。今は漁港や堤防ができて素人向きのポイントになったけど、昔は太東やマリブはA級ポイントでパーフェクトウエーブが入っていたんですよ。九十九里ドライブインのタニーサーフショップの大谷さんには大変お世話になりました。小学の頃は友達の板を借りて、夏しかサーフしなかったんですが、中二くらいからタニーに通うようになって、ロングジョンとビーバーテールを合わせて着て冬に入るようになったんですよ。大谷さんがくれたボロボロのシャークスキンのやつを自分で修理して着たんです。


■高校一年の転機

最初に出たのはテッドの試合。ロングボードでケープナインティナインという板が有って、それに乗ったりゴッテスの板に乗ったりして大会に出ていました。
自分の転機は高校1年の時でしたね、中2の時は同級生の仲間の中で一番下手だったんですよ。海に一番近いのが俺なのに下手なのが凄く悔しくて・・・、学校をさぼって練習しました(笑)。それからはだんだん上達してきて中学3年の時に全日本のボーイズで優勝。次の年に千葉の支部予選のボーイズで優勝。その時にCHPの中村さんが家に来ないかって誘ってくれたんです。中学生でお金がないから新しいボードも買えないじゃないですか、誘われて早速CHPにすっ飛んで行きました。それからは自転車でCHPに通ってサーフィン。次の年、高校生になってボーイズからジュニアクラスに代わったら支部予選落ちしちゃって、でも静岡の静波でやる大会に補欠で出られると聞いて連れてってもらったんです。そしたら補欠で出たのに優勝しちゃった。それが転機でしたね、プロになりたいと思った。

プロへの道
中学2年の頃に太東にスケートボードセンターが出来てサーフィンと平行してスケボーもやっていました。それが結構サーフィンの上達に繋がった気がします。CHPの中村さんの所でライダーをしていた頃、CHPでもスケートボードを扱っていて、渋谷のスケートボードパークや平和島のパークまで練習に行っていました。スケボーのプロ大会は、最終戦までいったんですが、上手い子が凄いエアーをきめていた。これは自分とは違うなって、自分はこれ以上出来そうにないなって感じるようになった。トップクラスにはいたけど、サーフィンの方にに将来性があると思うようになった。スケボーやるかサーフィンやるか悩んで中村さんに相談したら、自分で決めなさいと言われた。それでスケボーを止めてサーフィンに絞ったらジュニアで優勝できたんですよ。高校2年の頃にはプロアマの試合がたくさん有って、その試合でプロに混じって3位を3回取れ、プロの善家さんも破って、その時にこれはもうプロになるしかないだろって思った。高校3年の時に知り合ったオーストラリアのライバルが、家にホームスティに来ないかと誘ってくれて、英語は全くダメだったけど、学校をやめて単身サーフィン修行に行ったんです。でもそのうちお金もなくなり、その人のお父さんの家具屋を手伝ったりして3ヶ月ほどいました。オーストラリアはレベルが高いし、道具も進化していてシングルフィンからトライフィンに変わり、テクニックも切り替わった時期でしたね。

プロとして世界で闘う日々
一回目のプロトライアルでトップ通過して、次の年プロとしてデビュー。丸井の大会の第1戦で優勝しちゃったんですよ。丸井だけで4戦あって4戦のトータルポイントで丸井の世界選手権に出られる良い時代でした。日本のツアーを回って負ける気がしなかった。ヨーロッパやアメリカに行って世界のトップと戦っていたから日本に戻って負けるはずがないって。その頃、トレーニングなんてやっている人もいない時代に自分はトレーニングの機械を借りて毎日プロテインとバナナ食べて、山を登ったり下りたり。サーフィンの呼吸練習もある人から教わってプログラム作って毎日やっていた。大磯でショップをやっている人がトレーナーの免許も持っていてプロサーファーならトレーニングを取り入れた方が良いと教えてくれた。昔、角川からサーフィンの本を出したんですよ、その時東大の研究室の人に水中での体力測定をやってもらったら、自分はボクサーと同じレベルだと言われた。トレーニングでしっかり体力が付いていたんです。19才でチャンピオンになって20才のときの2位、21才から4年連続で勝って楽しくてしょうがない、暗いうちから入っていましたね。でも勝てない時が有ってサーフィンが嫌になった。波回りが悪いとかもあるけど、サーフボードが薄くなってきて自分には合ってなかったんですね、それを替えてればもっと勝っていたかもしれない。エディに出たのは27歳の時、招待されてから4年近くもサイズが小さくてウエイティングでした。1回戦は4位、やばい優勝しちゃうかもと思った。つぎのラウンドでリップから真っ逆さま、ライフガードが上がるかって聞いてきたけど、あと3本やってくるって言った。結局14位でした。

■ボード選びでサーフィンが変わる
世界を回っているときの話なんだけど、リップカールチームにデレクハインドって言うコーチがいるんだ。調子の悪い俺のサーフィンを観ていた時、一緒に回っていた関野タケシに板借りたんですよ、そうしたらもうバシバシで見ていたデレクが、お前この板の方が合うじゃないかって。でもスポンサーがボードメーカーだと他のには乗れない、自分に合う板に乗れないんです。だったら自分で板を選んだ方が良いと思って34才くらいまで選手を続けて30過ぎで8年ぶりに優勝した。その時がたまたまワイドで分厚い板だったので、自分にはそういう板が合っているんだって思いましたね。サーフィンがまた楽しくなったんです。自分に合う板との出会いでサーフィンが変わる、自分が味わった事を世間に伝えたいと思い、ホワイトエンジェルと言うブランドを立ち上げたんです。カムバックサーファーも昔はそういう短くて厚めの板で楽しく波乗りしていたと思うんですよ、その楽しさをもう一度味わって欲しいというコンセプトで板を作っているんですよ。倉庫にしまっておいた板を持って海に来て、もう一度サーフィンしたいと思ってもパドル力が落ちて胸くらいまで沈んでいる。俺も波乗りしすぎて頸椎ヘルニアをやって腕の力が落ち、細い板ではパドルがついて行かない。それが新しい自分の板だと軽くシュッて乗れちゃう、乗れば足が勝手に動く。そういうことで困っている人は沢山いると思う。まるで介護用の板みたいなので名前がホワイトエンジェル(白い天使)なんですよ。

次世代の育成
最近若い子が少しは出てきているけど日本はまだ競争率が低いね、若い子が多ければ多いでウザイけど(笑)。オーストラリアでは、ウザイのがいっぱいいるんですよ。バーレイとかは夕方5時くらいになると学校終りの子供をお母さんが車で連れてくるんですよ、そうすると40〜50人の子供だらけになっちゃう。それに比べると日本は全然いない。だからレベルが上がらないしブラジルにまかされちゃう。昔世界戦に出た時、選手の名前の横に(ブラジル)なんて書いてあるとブラジリアンだラッキーって、絶対負ける気がしなかったけど今じゃバンバンやられている。日本は楽しむスポーツが多すぎて色々な種目に分散しちゃうからサーフィンのうまい子が出てこない。向こうはスポーツの中でサーフィンの比重が大きい、だから100人の中からの一人の上手い子を選べる。日本ももっとサーフィンが活発になれば、そういう子が出てくると思う。まだまだ先ですけどね。ハワイの波もタヒチの波も乗らなきゃいけない、筋力の無い小さな体じゃ乗りきれない、スピードでかうわけがない。子供の体を作るのに親の代から食べ物を変えていかないといけない。この間展示会にいったんですが、二年前と比べて活気が戻ってきている。右肩上がりになってきていますよ。

砂川治久
1963年東京浅草生まれ49才
ボンドサーフ経営


夢中で乗っていた10代
17才から波乗りを始めて一年くらい通いで千葉に行きました、18才の時に太東の吉田正さんの門を叩いて弟子入りをお願いしました。吉田さんは丁度サーフボードメーカーを立ち上げる時だったので、忙しいから手伝えと言ってくれました。毎日サーフィンをして二年半くらいお世話になりました。アマチュアの大会で勝てるようになりオニールがスポンサーになってくれて一度東京に戻ったんですよ。ベースは太東だったから、アパートを借りて毎日くらいの勢いで行ったり来たりの生活でした。


サポートを受けてプロに
アマチュアの成績が良かった時期にオニールの得意先の丸井さんがサポートしてくれるようになって、それでプロになる決心をしました。初めて丸井さんからハワイのチケットと宿泊費を出してもらった時は嬉しかった。そして世界大会を日本に引っ張ってきたときの選手の面倒を見る役を仰せつかりました。その時代に丸井池袋がサーフィンの道具を世界で一売ったと聞いています。その丸井のスポーツ館が客で賑わいアドバイザースタッフとして週に3回くらい販売のコーチングを頼まれて行っていました。サーフボードも作っていたしサーフィンの業界にも顔が効いたので、スタッフ教育と言う名目で僕をサポートしてくれたんですよ。その後もしっかりサポートをしてもらい、カリフォルニアで開催されるケティン カリフォルニアチャレンジと言う世界クラスが参加する大会に出場しました。その時は ティームチャレンジ・オニールチームで出場したんですが、二回目は丸井チームで出ました。これは丸井と取引しているメーカーの選手たちが集まってチームチャレンジしたんです。そのときのチームで覚えているのは、ビクトリーの先輩達、きよじさん、ゴッデスの池田ミツタカさんと僕で戦いに行った事が有ります。それからズーッと丸井さんとオニールさんにお世話になり、日本に帰ってきてプロクラストライアルでプロになりました。

カリフォルニアの波が好き
あの頃カリフォルニアに行っている日本人なんていなかったけど、僕はずっとオニールだったんでその年をきっかけに毎年3ヶ月くらいアフターハワイは必ずカリフォルニアでスタイルとかライフとかを吸収しました。英語がまるでだめだから体当たりでしたよ。地元の人に英語も解らないで良く来たねって英語で言われて(笑)、ハンティントンビーチに日本人はお前しかいないなんて言われたけど、その頃ハンティントンにはザ・サーフの鬼頭さんがいました。サンタクルーズでお会いした時、日本人に会ったのは初めてだと言われましたよ。ハンティントンはあまり良い波じゃなくダンパー、だから上手くなるのかな?みんなスピーディー。波が良いのは冬場、北の方でリンコンがパーフェクト、波が良いからハワイより好きでしたね。ハワイのノースのような大きな波はあまり好きじゃなかった、あまりに大きすぎて自分のサーフスタイルに合ってない、ジャンルが違う感じ。僕のサーフィンはマニューバとアクションとスタイル、この三つが重要だと思っている。デカイ波に乗っている人はそれがスタイルだと思っている。昔は一番デカイ波に乗らなければサーファーじゃない、みたいな変な考え方が日本に有ったんですが、合う人と合わない人がいる。サーフィンで一番重要な事はカッコイイ事。だからデカイ波に乗っている人はカッコいいと思っているでしょう、僕もカッコイイと思いますよ。でも自分には出来ないから、同じ色の花じゃなく違うカッコ良さを追いました。

サーフィンビジネスに転換
早い時期にカリフォルニアでいろいろなスタイルを吸収して、日本ではある程度通用したけれど、だんだん試合で勝てなくなり、回りもどんどん上手くなって自分が伸びなくなり26才くらいになった時に限界を感じた。僕は17才からサーフィンを始めているけど、カリフォルニアでは7才とか小さい頃からサーフィンを始めている。父親がサーファーでおじいちゃんもサーファー、サーファー一族。僕なんてサーフィンしたくて千葉に移り住む時、母親から勘当されましたよ。そうやってサーフィンに打ち込んできた環境と、小さいときから家族ぐるみでサーフィンに親しみ家族や親戚が応援してくれる環境の違いは有りますね。プロを引退して自分のお店とオリジナルブランドのウエットスーツを展開するようになったのは、ちょうどバブルの最後のときだったのでうまくいきました。その時はサーフィンをあまりやらず商売ばかりやっていました。サーフィンビジネスをもう一つ立ち上げようとしていたので、サーフィンはできなかったです。昔はオリジナルって言うと安物のイメージが有ったけれど続ければ本物のブランドになる。プロの選手を何人か抱えたり全国の友達が着てくれたりと26〜27年間ズーっとやっています。

海は様々なものを与えてくれる
元々本家が浅草でしたから東京ベースでサーフィンをしていましたが、10年くらい前に娘も千葉でサーフィンをしたいと言ってくれたので移ってきました。 サーフィンは面白いし僕が続けて行けば僕の子供たちや孫につながるかなって思って今まで続けてきた。僕には二人の子供がいて一人はサーファーで僕以上にサーフィンしているかな。サーフィンのためにアルバイトして海外留学をしながらサーフィンをしている。僕と同じで毎年冬場は3ヶ月海外に行って波乗りして一度帰って来るのですが又バリに出る、海外に出て波乗りを通して世界を観たいのでしょう。昔と違って今は手の届くところに世界が有るから幸せですよ。あのころ僕たちはサーフィンに飢えていたんだと思う、そんな僕の背中を見ていて良いと思ってくれたのか、娘が自分と同じ事をしている。娘はなんて言うか分からないですが、親としてはうれしいですよ。それはサーフィンをしない長女にも同じマインドをかんじる時があり幸せですよ。
サーフィンは海をズーッと見続けないと良い波に乗れないんですよ。サーフィンは環境がそろっている所でやるスポーツと違って整備されていないし、自然を相手にしてやるスポーツ。とにかく海に来てみたら波の状況が良くなくても必ず自分が納得できる波が一本は来ますよ。長く波乗りやっているけど一本も乗れなかった事は無かった。海に入ったら必ずお土産くれます。海に入るといつも癒される、悩んだら波乗りをお勧めしますよ。

牛越峰統
1971年10月東京都調布市生まれ
JPSA一般社団法人 日本プロサーフィン連盟理事長、U4SURF オーナー


兄がサーフィンを始めたころはちょうど、日本にサーフィンブームが押し寄せてきたときでした。
僕が住んでいたのは海のない東京でしたが、兄の買ってきたサーフィン雑誌を見て、かっこいいなーって思ったのがサーフィンを始めたきっかけですね。中学一年の夏からサーフィンを始めたのですが、初めて実物のサーフボードを見たときに惚れちゃいました。きれいとか最新とか関係なく、どういう物かも分からないのに惚れてしまった。当時ファインやサーフィン雑誌のSC とかで電車サーファーが取り上げられ始めた頃で、自分も兄貴や友人のボードを持って調布の街を歩いたりしましたよ(笑)。
中学の同級生三人と小田急線に乗って初めて行ったのが鵠沼、三列四列とサーファーが沢山いましたよ。小学校では野球をやっていたし、中学ではサッカーをやっていました。男としてメインのスポーツはやっていたから体力はできていたはずで、それに小学校4年の時からスケートボードもやっていたからサーフィンの基礎はできていたと思うんです。1本目から乗れて、そのときはスープライディングでしたけど真っ直ぐ乗れた時はもうこれだと、サーフィンでやっていこうって一本目から思ったんですから、笑っちゃいますよね。他のスポーツとはまるで違う、たとえようがなかったですね。サーフィンを始めた頃は、前日の最終電車で海に行って海岸にテントを張り、朝の4時からずーと入って、お腹がすくと鵠沼プールガーデンで焼きそばやお好み焼きを食べて、またサーフィンという感じでしたね。


中学三年のときに初めて大会に出ました。地区の大会に出て少しずつチョロチョロ勝てるようになってきて、高校一年の時に全日本ジュニアで三位入賞。それが僕にとって一番大きなアマチュアの成績です。サーフィンを始めて四年でプロをめざし、16才からプロテストを受けたんですが撃沈。その辺りからハワイへ修行に行ったりオーストラリアの試合に出たり、WPSがない時代に先輩に連れて行ってもらった。ぺルズビーチで世界のサーファーにもまれ日本に帰ってきて茨城でプロテストを受けました。そこで合格するまで四年ちょっとかな。その頃から全国のレベルの高いサーファーとコミニュケーションがとれるようになりました。近くにライバルや同級生は何人かいたんですが、各地で(NSA)全日本レベルに出会って刺激になりました。遊んでいられないぞ!みたいな気持ちになりましたね。海に行かない時も常にサーフィンに関わることを何かしていました。

日本プロサーフィン協会の理事長をやっていますが、別に立候補した訳じゃないんです、前理事長の腰添氏から「お前なら出来る」とお話を頂いて、失敗しても良いくらいの気持ちで受けました。何百人ものプロサーファーの上に立っている訳ですから本当は失敗が許されないです。みんなの力と今年30周年を迎えるJPSAが築いてきた歴史があったからやれたんですけどね。

海外の大会で日本のプロが勝てないと言われますが、たしかに日本のレベルは10年遅れている。以前理事長だった添田博道氏が日本のJPSAの試合に世界の試合をミックスさせた実績が有ります。その試合では日本のJPSAのポイントと世界の2〜4スターイベントのポイントがもらえる仕組みでしたので、選手たちが日本と海外の試合に積極的に出られるようになったんです。協会設立から30年、日本のプロが世界で活躍する、それを目標にやっているんです。JPSAのレベルが低いかどうかは関係なく、世界レベルのプロを作ることを指針に運営していることは事実なんです。JPSA のプロが世界に出て勝つ、それはかなりの覚悟と鍛錬が必要で、キッズからプロまでそのくらいの意識を持っていないとレベルがあがらない。

今の日本には世界レベルの試合が少ないですから、かつて丸井さんやマツモトキヨシさんがスポンサーだった頃のように、外資系のウエアーメーカーとかに協力してもらって世界ツアーを日本でやってもらえれば、この不況で日本でしか試合できないプロサーファーにもチャンンスが生まれるのですが。JPSAとしてはツアーも一戦増えて特別賞もつけられるようになったり、試合の中で選手に還元できたりしているんですよ。そういう面ではこの一年は良くなっていますね。全国(千葉)にも優秀なキッズが出てきています。先輩方やメーカーの方や最近サーフィンにはまっている人たちに、その子たちの名前をどうしたら覚えてもらえるのか、日本全体で応援できる仕組みを作るようにしていかないといけないんです。
サーファーって昔はコアな人種だったけど、今は力強いピープルです。バリで事故があって観光客が行かなくなったとき、サーファーだけは変わらずに出かけてくれたと、GarudaIndonesia航空会社やトラベルシーン旅行会社の人たちにとても感謝されて、なんでもお手伝いしますと言ってもらえました。そんな事が有ってJPSAの試合もこの不況の中、バリで13年続いています。

僕にとってサーフィンは自分のスタイルをむき出しにできるところが一番良いですね、とにかく夢中になれる。自分を一番生かせる所だとも思う、だから続けているんでしょうね。プロをやめてももちろんサーフィンを続けていて、サーフィンは試合だけじゃないんだって言う事が引退してから解るようになりました。海に洗われて悪いものを出している、サーフィンで自分がクリーニングされて再生されているんです。どんなに悩んでいても海に入った後の気持ちは凄く違う。

今、40代や50代がサーフィンで盛り上がっているけど、10代20代の若い子たちのスポーツ離れが気になります。サーフィンは若くなくちゃ出来ないスポーツだったのに、若い子がサーフィンしないのが残念です。プロサーファーがカッコいいと若い子たちが感じる環境作りをしないといけないと感じています。
サーフィンは昔より組織がきちんとしてきた。今後しっかりとしたビジネスラインができれば、キッズたちも含め世界に通用するナショナルチームを作って世界に送り出して行けるんです。JPSAの試合に日本の大きな企業が冠スポンサーについてくれないかぎり大きくはならない、そのためにも今年は連盟も震災復興を目的にチャリテーをやっています。バリの試合を終えてグランドチャンピオンが決まったら、日本の大企業に冠スポンサーについてくれるように営業しようと思っています。
サーフィンは自分の人生の中で一番信頼できる、やりがいのあるスポーツです。

添田博道 
神奈川県大磯町出身 53歳 SOEDA SURFBORDS JAPAN代表 プロサーファー


■サーフィンデビュー

俺が波乗りを始めたのは小学校6年、サーフィンを初めて見たときカッコいいなって思いました。大磯の海岸で知り合いの人にロングボード押してもらったらすぐに立てましたね。中学1年の時、少し短くなったボードに乗っている人を見て、簡単に見えたけど自分で乗ったらパーリングした。ハマったのはその中学1年の4月、ウエットを持ってなくて凍えそうになっても波乗りした、その頃は波乗りがただただ面白かった。自転車で動ける茅ヶ崎の西浜くらいまで行って波乗りしましたよ。最初にカッコいいなと思って波乗りをはじめて以来、サーフィン以外に面白いものに出会わなかった。学校のとき他のスポーツを見ても何やっているのかなって感じでした、サーフィン以上のものが無かった。 中学2から試合に出るようになったけど、最初の頃は負けてばかりで勝ちたい!と思う気持ちがいつもありました。BクラスとかCクラスとか女の人と一緒の試合があって2番とか3番とかで、なかなか優勝できない。だから3年のときはガンガン試合に行って、高校1年の頃には問題なく勝てるようになりましたね。それで波乗りにますますハマっていきました。俺たちの年齢ではノリヒコのデビューが一番早かった。中学2年の時にノリヒコが少年サンデーに出ていて、イイナー!こうなりたいなーって憧れていたもの。 俺がやっとデビューした頃、ノリヒコは全日本の少年の部チャンピオンだった。対抗できるようになって来たのは高校一、二年の時くらいからかな。それまではノリヒコの方が全然上で足元にも及ばなかった。


■日本のサーフィンを盛り上げたい。

いまプロサーフィンが盛り上がらないのは何故なんだろう。今人気のプロゴルファー石川遼は普通と全然違う上のクラスのメジャー大会で戦っているじゃないですか。それはサーフィンで言うとワールドチャンピオンシップツアー、その辺りで活躍する日本の選手が出てくれば日本のサーフィンも盛り上がるんでしょうね。スターがいないなら創らないとないとダメだと思う。俺の時代には糟谷修自とか中村の大ちゃんとかスターがいた。JPSAをやめたからよくわからないけれど、俺だったらスターを作る。海外ではなく国内に憧れのスター選手を作らないと昔のように盛り上がらないと思う。単純に考えれば良いのに組織がだから上手くいかないのかな、大野修聖のようにずば抜けた可能性のあるサーファーがいるけど………。日本のサーフィンも高度成長期くらいまでは憧れるスター選手がいて熱かったけど、15年前にその成長が止まってしまった。
日本のプロサーファーのレベルは上がっているけど、世界のレベルはそれ以上に上がっている。波にはそこそこ乗れているの上位に行けない。日本はすべてに優しい。日本人プロサーファーは世界に比べて試合をして勝ち上がっていくガムシャラ感が欠けている。ハングリーな気持ちが薄い。ブラジルなんか勝てないとすぐクビになっちゃう、チャンスを何回もくれない。世界はある意味もっと乱暴だよね、勝つために乱暴。何が何でも勝たなきゃダメ、負けたらおしまい、みたいなハングリーさが無いと勝てないよね。僕の周りにも何人か若い子がいて最近仕込み中だけど、マー君を筆頭に頑張ってどう出てくるか。そういう連中が10人20人と日本にいてほしいよね。日本の大会も海外の大会のようにすごくデカイ波の大会をやっちゃえば良いんだよ。日本にもシークレットで15フィートとか20フィートとかの波があるんだから、そういう所で大会をやれば乗れる乗れないがハッキリするじゃないですか、何か今までと違う事やんないと注目されない。5フィート6フィートなんかある程度サーフィンしている人なら誰でも乗れちゃう。そういうんじゃなく、皆が驚いてヘーッ!て言うような大会を日本でやったらもっと人が集まってくると思う。そういう事を伝える手段としてインターネットもある、そしたらテレビだって付くかもしれない。そういう大きい波をハワイで練習している日本人は何人もいるからね。そういう連中がもったいないじゃないですか。危険と隣り合わせだから難しいと思うけど、そういう連中が参加するビックウエーブの大会を作っていったら良いと思う。

■ジャワ島に家を造った

来月からパチタン島に行くんですよ、アメリカのサーファーマガジンにもバンバン出ている場所で波がすごく良い。そこに俺の家を建てているんです。300坪の土地で電気も井戸もあってインターネットも使える。日本人はいないけどオーストライア人が住んでいる。漁師が近くに居て魚は買えるし、野菜や果物も近くにある。冷蔵庫やテレビもあるし電気が止まっても発電機があるから大丈夫。家の前にサーフポイントが二カ所あって、大きいのがドカーンと…すごく速いんですよ。ファンじゃなくドーンとくる大きくてハードな波。誰かに言われたな、なんであんなハードな所にその歳になって家を造るのかって…。年々歳を取っていくじゃないですか、若ければ良いけど、俺には結構ヤバイ、失敗しちゃったかなって…ハハハ。3月から12月終わりくらいまでがシーズンだから来年の3月から向こうにしばらく行っている、向こうには信用できるバリニーズのプロサーファーがいて、その子が現地の事は何でもやってくれる。向こうの土地は俺の名前では買えないから、名義はバリのそのサーファー。
財産として買ったわけじゃないから、俺が生きているうちに使えれば良いと思っている。日本人のサーファー誰が行ってもいい、皆に使ってもらう。そこに若いサーファーを連れて行って世界で通じるサーファーにできたら最高ですね。

稲葉康宗 
千葉県船橋市1965年生まれdeep surf オーナー、プロサーファー


■中学1年のときに初めてのサーフィン。

小学5年のときからスケートボードをやって遊んでいました。ある時、近所のお兄さんの所にサーフショップをやっているという人が遊びに来ていて、たまたま僕のスケートボードを見て「こんどサーフィンをやってみないか」と声をかけてくれたんです。上から下まで全部借りて千葉の海に連れて行ってもらい、初めてサーフィンをしました。
多分その人が声を掛けてくれなかったら今サーフィンをしていなかったかもしれませんね。その時は千葉の飯岡という所に連れてってもらったのですが、その頃の飯岡はサーファーも殆どいなくてローカルの人と自分を連れて行ってくれた人と、ほんの数人しかいなかったのを覚えています。今と違って道も良くない時代でしたから2時間半くらいかかりました。
そのとき借りた板は、シングルフィンの2メートルくらいのボードでした。一回目から立てて海の上を滑っている感じがスケートボードとは違う気持ち良さ。そのときから病み付きになり、それからはお願いして毎週一緒に海に連れて行ってもらいました。どうしても自分の板が欲しいと思うようになり見つけたのが川井幹夫さんの板で210センチくらいの中古のシングルフィン、スティンガースワローの今で言う所のガンでした。
毎週海に連れて行ってもらってサーフィンしていろんな人と知り合った。中学2年生位から大会に出るようになりました。丁度その頃全日本にボーイズクラスが出来て、一回目に久我孝男が優勝。次の年には僕も千葉予選で勝って全日本に出たんですが、そこでコテンパンにやられ、凄く上手い人がいっぱいいるんだなーとわかると、ますますサーフィンにのめり込みましたね。
中学三年のときに支部予選をトップで通って、伊豆白浜の全日本では6位に入りました。その時千葉が6位と5位、1位から4位まで伊豆のサーファーでした。少しずつ上手くなったのが実感できてきたんですが、その後18歳くらいまで遊んでしまってあまり真剣に波乗りしなかった。気がついたらライバルはどんどん上手くなってプロになったり外に出て行ったりしていて焦りました(笑)。それまではプロを目指すという意識があまりなかったのですが、改めて真剣にサーフィンを始めて試合に出るようになったんです。


■25歳でプロになる

プロになったのは結婚した25歳の時でした。それまでプロクラスを3回受けたんですが、いつもぎりぎりで落ちていました。結婚をしたし、今度落ちたら普通の仕事をして趣味でサーフィンすればいいやって思って、最後の挑戦のつもりで行ったら受かっちゃった。それからプロの生活を30歳まで5年間しました。海に遠い環境でしたが、週一サーファーでもプロになれるんだというところを見せたくて、がむしゃらにやりましたよ。でも全然勝てなかったです。


■ 日本のサーフィンを元気に

日本のサーフィンを元気にするには
ケリー・スレーターのようなスターが日本人から出てきたら新しいサーフィンブームが興るかもしれませんね。うちの息子のレオもJPSAで最年少プロになったんですが、ケリーのレベルには無理でしょうが、何とか世界のレベルに追いつけるよう頑張っています。レオが生まれる時に初めて海に浸けるならハワイのパイプラインと決めていたんです。1歳の時にノースに連れて行ってパイプラインの海に無理矢理浸けちゃったんですよ。インサイドでしたが大失敗でした。怖かったのか、それから5歳まで砂浜では遊ぶのに海に入らなかった。
一宮にレオの同級生で大原ひろとって言う子がいるんですが、その子がサーフィンを始めたおかげでレオも6歳くらいから遊びながら波乗りするようになりました。子供同士ライバル心が出てきてどんどん上手くなった。ほとんど毎日朝夕と海に入っていましたよ。目標だった日本最年少プロを達成できたんで父親としてはとてもうれしいですね。今は見守りながら手伝えることはやってあげようと思っています。
レオは今ハワイのシェイパー、ウエイド・トコロの家にホームステイして英語とサーフィンの勉強をしています。日本人サーファーとしては良い環境でサーフィンしているんじゃないかな。その割には全然結果が出てないけど(笑)、世界を目指して頑張ってほしいね。うちの子供じゃなくても若い世代の子供たちがどんどん世界に出て、日本のサーフィンを盛り上げてくれたら良いですね。その応援は僕たち世代がやらなくちゃいけない。


■東日本大震災

地震の後は5日間海に入らないでいましたが、何時までも自粛していたら皆が沈んでしまう。元気のある自分たちが頑張っていかないと被災地の救済もできなくなる。被災地の友人やボランティアで東北に行ってきた人からも「元気があるところはガンガンサーフィンして盛り上げてくれ」と逆にケツを叩かれました。今は自分たちが出来る事をひとつひとつやっていくしか有りません。
東日本大震災にて亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された皆様とそのご家族の方に心よりのお見舞いを申し上げます。 稲葉康宗

江澤和幸 
1966年勝浦部原生まれ 45歳



初めて波乗りをしたのは中学の時、サーフィンしていた兄貴のボードを持ち出して乗ったのが最初です(笑)。そのときに傷を付けたのに黙っていて後で見つかってひどく怒られました。波乗りを本格的にはじめたのは高校に入ってからですね、中古のボードを手に入れてほとんど毎日サーフィンしていました。大会で少しずつ良い成績を残せるようになって、ますますハマリましたね。高校三年の時は全日本ジュニアで二位、シード選手になりました。


■高校卒業、漁師になるかプロになるか。

卒業を前に漁師になるかプロになるか真剣に悩みました 。実家が漁師だったので親に相談したんですが、その頃の漁師はあまり商売にならなくて船を持つにもお金がかかるので反対されました。かといってプロサーファーも今のようにスポンサーが沢山いるわけではなく、食べるのもやっとの様な時代でした。先輩のサーファーに相談したら、プロになるなら湘南に行けばと言われたけれど、波の少ない湘南に行くより波のある千葉で波乗りしたかった。結局漁師もプロもあきらめて普通 の会社に勤めました。それまで沢山の試合に出て雑誌にも取りあげられ、騒がれた時もあったのに急に姿を見せなくなったので、みんな僕がサーフィンをやめたと思っていたみたい。会社を休んでまで試合に行けなくなっただけで、サーフィンはずーっと続けていました。同年代の知り合いがプロになって行くのを見てはミスったかなと自問自答しながら続けていました。プロに行っていたらこんなに長くサーフィンを続けていなかったかもしれない。アマチュアで良かったんじゃないかって最近思うようになりましたね。今、プロを目指している2〜3人にライダーで乗ってもらっていますが、試合でたまたまポイントを取ってプロになってもその後が大変。それよりアマチュアでしっかり良い成績を残し、選手権で優勝してトライアル受けてプロに行った方が良いと話している。


■勝浦部原

以前WCTの大会開催をここに呼んだのも、大きい大会が毎年開催されれば世界を代表するトップ選手のサーフィンを間近に見られて、それを見て自分もやりたいと思うサーファーが増えることが目的でした。でも今は地元のサーファーが少なくなった代わりに他から移り住んだサーファーや週末だけアパートを借りて部原正面に入るサーファーが増えましたね。当然混んでくるからルール守れないやつがいると口論になる。部原は「ルールを守れないやつは二度と入れない」という雰囲気があるんですよ、それが強調されて部原イコール怖いみたいに思われていました。高校生の頃なら混んでいる目立つところでわざわざやりましたけれど、波乗りから少し離れてからは混んでいるところは避けるようになりましたね。松部、マリブ、おばちゃん下、シンガが好きですね。自分が高校卒業のときに就職で都内に行く人とこっちに残る人と別れたんですけれど、僕には都内に行くって考えは全くなかったですね。サーフィンをやりたい一心でした。千葉の海が好きだから試合で湘南に行く以外は松部と部原でほとんど勝浦から出ていないですね。この場所、この海、この波が好きなんですよ、自分の生まれたこの勝浦が。会社に勤めて7年たった25歳の時、知り合いが独立して太東でサーフショップを開いた。ボードでも買おうかって出かけてったら、買わなくていいから乗ってくれないかって言われて25歳でライダーになりました。このときからまたサーフィンにハマリました。自分の第二次ブームですね。それまでは普通にある板に乗ってフリーでやっていただけですから気持ちが全然違う。会社も勝浦市内に替えて仕事しながらライダーを続けましたよ。ショップの名前も売りたい、サーフボードブランドも世に知らせて力になりたいと積極的に大会に出るようになり名前が残せるようになりました。


■若い子達を育てたい

最近、海に入って感じるのは次世代の若い子達は波乗りしているけれど、自分世代とその子たちの間がいないんですよ。年齢の高いサーファーは波の良いときは入っているけど、悪いときは全く居なくなる。そんな浜を見るとサーフィン人口が減って縮小していくのかなーと心配になりますよ。自分たちがサーフィンに夢中になっていた頃、他に楽しいものが無かったせいもあって一冊の本をぼろぼろになるまで見ては、あの板が良いとかあのマークがかっこいいとか集まって夢中になっていた。今は楽しい遊びが他に沢山あってサーフィンに入ってこないのかな。でも体験したら絶対に夢中になると思うんですけどね。残念ながら部原は遠浅じゃなくてサーフィンを教えるには不向きなところ。湘南なら波が小さくても押してもらって遊べるけど、ここはうねりが入らないと波が立たないし足がつかないのが普通だからスクールには向かない。でもこの商売をやっているからにはサーフィンを頑張っている若い子達のために良いものを提供してあげたい、売りっぱなしではなく一緒に海に入り自分たちが得た知識を少しでも伝えたいって思うようになりましたね。波が悪くても海に入った後にシャワーを浴びたときのスッキリ感。気持ちいい!サーファーじゃないとわからないね。こんなに長く続けられるスポーツってそうないですよ、年々体はつらくなっていくけれどやめられない。サーフィン中毒ですね。

細井 隆 
1961年4月、神奈川県小田原市生まれ茅ヶ崎市在住
元プロサーファー、HosoiiSurf&Sportsオーナー
■初めてのサーフィンは小学校4年

茅ヶ崎の実家の近所によく遊んでくれる中学生のお兄さんがいて、僕が小学4年の時に海に連れて行ってくれて、黄色いサーフボードに乗せてくれた。その時の僕の身長では腰から胸、今なら膝くらいの波にお兄さんが押してくれて一本目から立て、ずーっと岸まで乗って行けたんです。それが僕の最初のサーフィン、すごいなー楽しいなーって思いましたよ。それからはもうサーフィンがやりたくてやりたくて(笑)クリスマスにサーフボードが欲しいって父に話して、当時中海岸に有ったゴッデスに行った。丁度良いのがあるよって出してくれたのが2万円のサーフボード。でも「そんな高いものとんでもない」って言われて買ってもらえなかった。(笑)中学一年の時に初めて自分のサーフボードを買ったんですよ。ドジ井坂さんのお店でHAWAIIって書いてある中古のボード、嬉しかったですね。近くにコスミックやゴッデスがあって、当時はカボチャポイントが全盛の頃でそこに行くと沢山のサーファーがいた。僕なんか怖くてその人たちと口なんか聞けないし、遠くから眺めて見て覚え、ちょっと離れたところでそれを練習した。そういう意味では近くにお手本があってすごく恵まれていましたね。


■中学2年、ビビリながら出た初めての大会

生まれて初めて試合に出たのはその次の年の中学2年の時。青田さん、ヒロミチさん、小林さん、モスケさんとかが出た酒匂川の大会でした。B クラスに出たんですが波が大きくて沖に出るのが大変でした。体力が有ったので何とか沖に出られ、その大会でいきなり3番、これではまりました。それからは行ける大会にはどんどん出ました、高校2年から大学に入る間はほぼ勝たしてもらったので、その頃のトロフィーが沢山あります。日体大にサーフィン同好会があって全日本学生選手権に出て優勝しました。その大会の上位2名までが全日本選手権への出場権があり、参加したら3番になってその後プロになりました。


■大学1年、オーストラリアでサーフィン文化の違いを知る

プロになって成績をおさめる前22才の時に1年弱オーストラリアのキラと言う所にサーフィン修行に行きました。僕がサーフィンを始めた頃、日本ではサーフィンは特別なもの、ドロップアウトした人がやるものと見られていてけど、オーストラリアではサーフィンが文化になっていてサーフィンやっているなんて常識。サンタがサーフィンしている切手があるくらい生活に溶け込んでいる。僕が始めた頃はお父さんがサーフィンしている人なんて殆どいなくて、オーストラリアなんかおじいさんもその又おじいさんもサーファー。その辺の違いを凄く感じました。日本では考えられないことですけど、僕がおじいさんになる頃にはきっとそうなるんだろうなって思っています。


■日本のサーフィンが社会的な地位を得るために働きたい

茅ヶ崎支部では子供サーファーの育成に力を入れていて、ローカルルールをつくり朝学校に行く前と夕方の時間はキッズ優先、大人達は子供を優先的にのせてあげるようにしています。今年大沢ノブ君がJSPA のチャンピオンになったり、大橋カイト君が ASP のジュニアチャンピオンになったりしたのもそういう事が影響していたのかなと、10年たってようやく育ってきたかなって感じています。高校野球なんか甲子園に行くっていったら壮行会とか凄いじゃないですか、サーフィンで全日本に出るって言っても今までは壮行会なんてあり得なかった。茅ヶ崎サーフィン協会が市の体育協会に属してからは、先生が朝礼で説明してくれて壮行会やってくれるんですよ、子供の意識も変わりますよね。茅ヶ崎市が毎年スポーツ優秀選手を表彰しているんですが、サーフィンも同様に表彰してくれる。その辺が茅ヶ崎って素晴らしいと思いました。昨年サーフィンのアジアオリンピックがバリ島であって代表で出た茅ヶ崎の清永亜希子さんが金メダルを取ったんですよ、そうしたら市役所に垂れ幕が掛かって盛り上がりましたよ。僕はこれまで夢中でサーフィンをやってきたけど、これからはサーフィンが社会的地位を得るために働くことが、僕の役目ですね。子供達には「オリンピック金メダリストが日本人には沢山いるじゃないか、だから基礎体力や身体能力は決して劣っていない、やれば出来る。考えの違いや環境の違いはあるけど目標を持ってがんばってほしい」といつも話している。世界チャンピオンが出たら凄く変わると思うんです。その可能性を持っている子が茅ヶ崎に何人もいます。各ショップも協会に所属していて、キッズの大会を毎年やっているんです。大会っていうと競うだけじゃないですか、そうじゃなくて大会経験してもらうという考え方で幼稚園から中学生までの子供が参加でき、初心者も参加できるように海の中に補助が一緒に入って押すクラスがあったりするんです。他にサーフィンアカデミーという子供達だけを集めて毎週日曜日に開催するスクールがあったり、市役所が開催しているスクールとかいろいろな活動をしています。大学が日本体育大学だから学内にオリンピック選手がいたり、体育を極めている人が多かった。僕はハンドボールとかバスケットとかいろんなスポーツをやったし、教員になろうと思って免許を取って目指した時期もあった。でも一番長くやっているのがサーフィン。そして今はサーフィンの事ばかり考えています。きっとサーフィンに勝る物がなかったって言う事ですね。でもサーフィンだけしか知らなかったら、続いていなかったかもしれません。

藤沢譲二  東京都国立市出身 60歳
フリュードパワー サーフクラフト代表


■ハワイ

15歳の時、ハワイの親類に預けられて、皿洗いのバイトをしながら英語学校に通わせてもらいました。ハワイの従兄弟がサーフィンをやっていて、アラモアナの売店の前のポイントに連れて行ってもらって波乗りしたのがサーフィンとの出会いでした。ロングボードだったからすぐに立てたし、ローカルの友達もできて学校の裏門で待ち合わせては、365日毎日波乗りしていました。
波乗りを始めて三ヶ月くらいして、アルバイトをして貯めたお金でダウンタウンのラッセルスポーツにあった89ドル99セントの赤い板を初めて買いました。みんなから「なんだ、その板!」とからかわれて、その次に買ったのは150ドルのちゃんとした板、その二つのボードの長さや細かな形まで今でも覚えていますよ。
僕がハワイにいた頃ショートボードが出現して、今までのロングボードとは全く違うサーフィンの劇的な変化の時代でした、その話を友人にすると羨ましがられますよ、本当に良い時代にハワイにいたと思います。
僕も若かったし毎日波乗りをしていて、波乗りを純粋にとらえてましたね。
しばらくして母が日本から来て永住権を取り、今も母はハワイで暮らしていています。
今でもサーフィンはもちろんパドルボードもやりますが、毎年冬場はハワイで過ごします。最初の一週間はおふくろのところに行き、後は店を閉めるわけにいかないので皆で順番に行き、最後は僕が片付け役として少し長く行きます


■人との出会い

けっこう日本とハワイを行ったり来たりしていて、19才の夏休みにはハワイで知り合った茅ヶ崎のサーファーの家にお世話になり、その二年後には鎌倉のサーファーと知り合い、しばらく鎌倉に住んだこともあるんですよ。でもいま茅ヶ崎に住んでいるのは、その茅ヶ崎のサーファーの影響が強かったんでしょうね。 人との出会いで自分の生活する場所まで変わるんですから、人生って面白いですね。25歳のときに日本に帰ってきてしばらくは東京でいろいろな仕事をしていたのですが、茅ケ崎の先輩を頼ってサーフショップを始めて35年ですよ。 茅ヶ崎にきて最初に印象に残ったのは、僕より若い地元のサーファーの純粋さでした、僕なんか色々な仕事を経験してきたから彼らほど純粋じゃなかった。 僕はプロ一期生として10年戦ってきた、その後しばらく休んだ後 JPSAのロングを設立、とにかく人を集めないと始まらないので大変でした、当時ロングはお荷物でしたから上手く動き出すのに三年以上かかりましたよ。


■子供サーフィンスクール

毎年開くイベントとしては、今年で16年目になるのですが、小学校1年から6年までの生徒を対象にした子供サーフィンスクールがあります。今年は25人の応募がありました、25人の子供にサポートが36人つきます。マンツーマン方式なのでクラブのメンバーやお客さんがボランティアとして手伝ってくれますが、社会人が平日3日間休むのはとても大変だと思います。
このスクールを通して子供たちに海のすばらしさを、少しの怖さを味わい理解してもらいたい、そしてサーフィンを好きになってほしい。
毎回感動するのは、参加する子供の中には言うことを聞かない子供や、やんちゃな子供もいて最初はバラバラですが、スクールが終わる頃にはみんなが一つになっている。子供たちは一日何回も波に巻かれて辛い思いをするけれど、その度に波をとらえる感覚が少しずつ解って来る。僕たちが教えなくても海や波が教えてくれるんですよ、その子供の喜びをみんなで分かち合えるんです。
こんなスクールの第一期生にJPSAグランドチャンピオンになった田中樹や、昨年プロになった若手NO.1の大橋海人がいます。
自分の所のサーフィンの大会はスタッフ任せで出来るけど、子供サーフィンスクールだけは任せられませんね。人との出会いで今があって、そしてその友人が僕を支えてくれている。そのことを本当に感じさせられます。
これからも人とのつながりを大切にしてお店も、波乗りも続けますよ。

千葉県勝浦市鵜原在住
オーシャンサプライズ代表
照岡道廣 60歳


■サーフィンを始めてからピークで乗れるまで

波乗りを始めたのは35年くらい前ですかね。地元の鵜原ビーチに東京から先輩の大工さんがロングボード一本持ってきたんですよ、みんな並んで待っていて乗らせてもらった。それがサーフィンを始めるきっかけです。
教彦さんとは松部で一緒にサーフィンをしていたけど、そのとき教彦さんはスター俺はただのローカル。教彦さんは鴨川の川井さんのところにいて一番サーフンをしていた頃で輝いていた。こいつはすごいなって思った。次元が違うサーフィンをしていましたね。プロになるにはそれを超えないといけないけど、俺にはそれが無理だとわかっていましたから、ずっとアマチュアでサーフィンしていました。
CHPの中村さんや川井幹雄さんがマリブで乗っているころ、俺は鵜原で修行していた。しばらくして俺もマリブにいったけど、上手な奴がいなくなり暗くなってからゲッティングですよ、そんなことが三年続いたかな。当時のマリブは威厳がありましたからね。ショートボードやっていて桜井喜夫さん(通称ヨッチャン)と知り合い、教彦さんやローカルの蛸操とも知り合ったけど、それでもピークから乗れるのに8年かかりましたよ。腕前だけじゃなくて顔が利いてスター性も出来てこないと乗れない。ローカルといえどもグループに入ってコミュニケーションが取れないとピークには行けないし、ポイントブレークなんて入れない。
昔のマリブはオーバーヘッドの良い波がきていたんですよ、でも今は変わった。エビとかアワビを増やす魚礁を作ると言って、沖にも投石したんですよ。だからうねりが直接リーフに当たらないで魚礁に当たってパワーが落ちたうえに、道路が出来てバックウオッシュも入るようになった。


■ヨッチャンの還暦トリップを企画

ヨッチャンの60歳の還暦パーティをするために、いろんな人に協力してもらってモルジブのボートトリップを企画した。現役のプロサーファーを三人入れてGAORAと雑誌に話をつけたんですよ。GAORAでは一時間半の番組になった。プロの他にはヨッチャンの板のスポンサーしている添田博道、後は金と時間に余裕がある友人をいれて毎日船上で還暦大パーティ。
実は二年前に部原でGAORAの取材受けたときにモルジブに行く計画があることは触れておいたんですよ。そうしたら向こうからどんなメンバーですかって乗ってきたんです。
船では4000ドルくらい酒飲みましたね、4000ドルの量をどう説明したら良いかわからないけど樽の生ビールはすぐ空いちゃうし、シャンパンありバーボンありで毎日乾杯の嵐。
ヨッチャンとはこの先も出来るだけ短いのでやろうって言っているけど、少しずつ長くなってきていますね。(笑い)ショートでやるのは頑張ってあと4〜5年、65歳位になったら板が長くないと体力的にきついと思う。
ハワイのサーファーのように、シャワー代わりに朝のサンセットで5本くらい軽く乗ってから朝食を食べるとか、仕事帰りにワイキキの優しい波に入ってから帰るとかやっていれば、いつまでも出来るだろうね。。


■ウエット屋の仕事

ウエットスーツの仕事に就いたのは、サーフィンのブームのピークが過ぎてきた頃、そろそろ仕事をやろうかなって思った。それから29年間、もがきながらやっています。24歳でヨッチャンに出会って、こんな面白い遊びをやらないてはないと思った。
ヨッチャンのクラブハウスに転がり込んでアルバイト生活しながらサーフィンに夢中になった、気がついたら30才。そろそろ仕事をしないとまずいと思っていたときに友人がウエットスーツ屋をやるんで勤め始めたんですよ。でも平日に松部とか部原とかいい波が立つじゃないですか、波があると仕事に行かなかったからやっぱりクビになった。(笑)
それじゃ自分でやろうって思い、ヨッチャンからビクトリーというウエット屋を紹介してもらって、そこのライダーをさせてもらいながら、基本を教えてもらったんですよ。デザインするとか型をおこすとか作る工程は解るんですが、全くゼロからのスタート、失敗もありましたよ。最初に作ったヨッチャンのウエットなんか胴が長くて足が短くて、「すごいウエット持ってきたなー」って言われた。その話はいまだに言われますよ。(笑)
ウエットもこの数年素材がめちゃくちゃ進歩して、高くなったけど保温性がすごく良くなった。素材は日本製が一番良い。柔らかくて毛のある奴とか良いものができてきたけど、もっといいものを作りたい。今作っている素材も開発に3年くらいかかったかな。
所属プロはハワイにいるワールドチャンピオン、デレク・ホーやマイケル・ホーと子供2人。マイケル・ホーの娘がワールドツアーにデビューしてすぐに1勝して話題になった。日本人のプロサーファーも入れたら17〜18人になるよ。
5年間部原ビーチでWCTやっていたとき、中村さんの紹介でハワイの日系ジョン・シモオカという選手と知り合った。泊まれるあてもないのに友達をたくさん連れてきて、泊めて食わせてくれたら大会のときにロックホッパーのウエットを着るという話になった。それ以来ハワイからどんどん来ては泊まっていった。その一人がデレク・ホー、マイケル・ホーだった。英語もしゃべれない俺なのにラッキーでしたよ。
ワールドチャンピオンをデレクが取ったって聞いたときは感激したけど、ウワーお金がかかる!どうしようって思った。ワールドチャンピオンの契約料なんてわからないけど、会社が小さいから契約料はたくさん出せないって正直に言ったら下げてくれたから、そのかわり3年契約にした。
彼がチャンピオンをとって俺も世界が変わりましたよ、今でも一緒に酒を飲みますよ。


■今年は俺が還暦

昔は4フィート以上の波もやりましたけど、今は3フィートが限界かな、反応が遅くなっているからあぶない。一応部原や松部はチェックするんですよ、でも年々入らなくなりましたね。天気のいい日に気分よく乗りたい、本数じゃなく良い波を5〜6本も乗ればいい。
今でもサーフィンできるって幸せですよ、当時の仲間が集まれば昔に戻れる。みんないつまでも若者。サーフィンは海を通して仲間が増えるすばらしいスポーツですよ。
今年還暦ですが、俺もスケジュールを組んでトリップに行こうと計画しているんですよ。でも人が多すぎて人選が大変ですよ。一緒に行くプロサーファーがきっちりやりたいと言っているからメンタワイかノーススマトラかモルジブかってところです。ボードトリップは皆が仲良くなれる、目が覚めたらポイントしかないわけだから。みんなのサーフィンみているだけでも楽しいんですよ。
いままでもプロサーファーを連れて5回くらい海外取材に行きましたが、プロサーファーの乗る波は危険だから僕は優しいところで楽しくやっていますよ。
ずっとサーフィンを続けたいから、サーフトリップに行っても無理しないで自分にあったサーフィンを楽しんでます。

黒木 保 千葉県市川生まれ 54才 クォーターサーフボード代表取締役 シェーパー


■アメリカ・ハワイがサーフィンを始めたきっかけ

波乗りを始めてやったのは30数年前、中学の同級生でジャステスサーフボードの板を削っている田島三男というのが波乗りを始めて、かなり波乗りに狂っている時期で一緒にやろうと誘われた。僕はそんなに興味がなく、年に一回か二回くらい付いて行く位だった。 その田島とアメリカへ行こうって話になって、僕はサーフィンには興味が無かったけれど、「アメリカ」に惹かれて19才のときにカリフォルニアに行った。それがサーフィンをやるきっかけになりましたね。何の知識も無いのにホテルも何も予約なしで行ったんです。行ったときに運悪く交通ストがあって、交通機関が何も動かなくなった。しょうがないからイエローキャブを使って移動していたんですよ。でもその頃は一ドル300円以上の頃だからお金がすぐに無くなっちゃった。二人でおおざっぱな事を考えて、島だったら歩いて動けるだろうってんでハワイに行く事にしたんですよ、ハハハハ大きいのに・・・。持っていたのが一年使えるオープンチケットだったからハワイ経由で帰って来られたんです。 アラモアナのホテルは、ベッドが四つも入っている一泊250円くらいの小さな部屋だった。夏だからアラモアナの波は最高に良くて、田島はますます狂ったようにサーフィンしていた。その頃からかな、僕がサーフィンやるか!て思い出したの。田島はテッドで働くのが決まっていたから先に日本に帰って、二ヶ月位後に僕も日本に帰った。


■修理のバイトを頼まれたのがこの仕事に就くきっかけ

しばらくプータラしていたらテッドの阿出川さんの奥さんから アルバイトで修理をやらないかって言われて、それがきっかけ で今の仕事をやるようになったんです。それからあっという間 の25年ですね。 テッドで板の削り方を教わったわけだけど、 その頃は教わると言うよりも見て覚えると言った方が良いかな 。その頃テッドにはシェーパーの飯高さん、蛸さんと田島がい て、飯高さんからとにかく見てろって言われた。段取りだけ教 わって後は自分で見てきたモノを作りながら覚えるという感じ でした。たくさんいろんな板を見て試して、今に至っている感 じですね。 一昨年、田中兄弟のイズキが僕の板で全日本のグ ランドチャンピオンを取ってくれたんですよ。一般ユーザーの 板を作る時もプロの板を作るときも同じように接していますし 削り方も同じなのですが、プロの板を削るときには気が入って しまうようです(笑)。ボトムのラインを少したててほしいと かレールは少し落とした感じにして欲しいとか、そういう話を 交わしながら作ります。僕の板を使うプロは日本に三人、バリ に二人います。 ユーザーと向き合った時に自分の頭の中に一 番乗りやすい板がイメージ出来るんですよ、これだったら間違 いないぞって。その感性で作った板が自分の板だって思ってい ます。


■昔のサーファーは熱く繋がっていた。

昨今は波乗りの楽しみ方が変わってきて、競技一辺倒じゃなくて、長い板やセミロング、ファンボード系まで多種多様でいろいろな楽しみ方をしていますね。 僕も昔は毎日入りましたよ。その頃のウエットはビーバーテールしか無くて、オニールのフルスーツ見たときはびっくりしましたよ。サーフボードも材料から何から変化していて、昔と違って軽い、でもボードが薄くて軽い分弱いですよ。余り弱いって言っちゃ行けないんですが、ハハハ!よく折れます。 昔は大きい、重い、厚い、曲がらないでしたからね。 その頃、一日中海にいるみたいな、熱くなっている人がたくさんいたんですが、今は余り見ない。僕たちはその頃のパイオニア的なサーファーの二代目、盛り上がりも凄くて楽しい時代でしたよ。 ポイントに行くには風を見て行けよ!とか、海にはいい人がたくさん居ていろいろな事を教わりましたよ。今は簡単にネットなんかでいろいろ情報が手に入るから人との繋がりが希薄で熱くならない。


■クォーターサーフボード

ここはボード工場と店と住まいと一緒になっていて、スペースが限られているから板に関わる物しか置けないですね。ウエットスーツもサイズだけ取って注文。服は置かない。デッキパッチとかリーシュとかくらい。作るのはクラブの子に頼まれて作る、クォーターのオリジナルのTシャツやタオル、帽子くらいかな。店の名前は、四人兄弟の末っ子だったし四人兄弟で一番の厄介者が始めた仕事だからクォーターにした(笑)。
一応体が動かなくなるまで、波乗りも仕事も続けますよ。

伊豆 白浜マリーナ 酒井厚志51才 日本サーフィン連盟広報委員長・理事

サーフナッツのサーファーズは見ていました、源さんのページも見ましたよ。
みんな知っている人ばかり、自分より若いのは赤井くんくらいかな。サーフ1の編集長になって忙しいみたいです。桜井喜夫さんは僕が高校三年でサーフィンを始めたころ新島で出会いました。島でキャンプしていて、いかにもサーファーのお兄ちゃんって感じで、今でもそのころのまんまですね。20年くらい前にスリランカでも会ったことがありますが、ズーっと同じペースで人生を楽しんでいる。源さんも一年中あの感じ、スクールではスパルタで教えていますよ。僕のところのスクールは年間500人位、7、8月の夏が中心で冬は休んじゃう。大体ネットで調べてから来る人がほとんどで、直接来る人はいないですね。初心者がほとんどですが、リピーターも多いですよ。今は昔と違ってハワイのように、この辺のホテルからオプショナルツアーで来る人も増えています。午後は水族館に行くから午前中にサーフィンスクール、みたいな人達にも教えているけど、そこから波乗りに入ってくる人もいます。


■高校3年で始めたサーフィンが仕事に繋がった

僕は東京で生まれて、高校三年の頃に鵠沼でサーフィンを始めた。その頃はサーフィンブーム。サーフィンやっていればカッコいいなんて時代。暴走族の先輩がサーフィン始めて、車高の低い車で爆音たてながら鵠沼とか辻堂とかを走り回っていたハッハッハ!
僕もレッグというお店で2万円くらいの安ボードのセットを買って始めたんです。ウェットスーツまでは買えなくて、でもあまりにも見窄らしいから黒のTシャツと黒の海パン履いて、遠くから見るとウエットに見える工夫をした。寒いけど見た目が大事!とそんなことやっていました。その後丸井でビーバーテールのウエットを買いましたけどね。
学生時代から下田の民宿旅館でアルバイトしながら波乗りやっていた、源さんと知り合ったのもその頃ですよ。大学生の頃は夏だけこっちに居たけど、4年で卒業できなくなって5年目は1週間に1回か2回しか大学に出なくて良いから、こっちにいる方が多くなった。源さんとはその頃からだから長いですね。白浜荘って言うところにサーフショップがあったんですよ、オーナーが源さんに進められ、ゴッデスの鈴木正さんが協力して作った店の店番をやっていたんですよ。6〜7年やってそこをやめた後ここへ来てショップを始めたんですよ、店番しながらいい勉強させてもらいました、自分で一からだったらきっと駄目だったでしょうね、源さんにもとても助けられましたよ。


■白浜の波

この辺は探せば波乗りできない時は無い。白浜が良いと多々戸がオンショア、多々戸が良いと白浜が駄目みたいに。ここは東伊豆なんですが、東伊豆で風が吹くと西伊豆で波が上がるんですよ。西風でオンショワでも西伊豆は風波でサーフィンできる。白浜は外房のうねりが入るし多々戸は沖縄のうねりが入る。南から北まで拾える恵まれた所です。ただサイズだけは不満ですね。ここは東のスエルが入っても、大島とかでブロックされて沖にテトラが入ってるように遮られる。スエルが回り込んでくるときにブロックされる。北のスエルが回り込むと千葉にも無いくらいの良い波が入ることもある。不思議な所です。
僕は、今日は良いなって時にはいります。午後は風が変わってオフショワになるなんて聞くと早起きしてね。今朝はショートでしたが、ロングにも乗りますヨ。ここの波の良いときはクローズ気味のワイドでロングじゃ乗れない、シュートでドルフィンスルーじゃないと出られない。パワーもあるからロングじゃ折れちゃう。


■ショップ経営の苦労と楽しみ

サーフショップのお客さんは減っていないですね、でも財布の紐が堅い。大会に出る人も減ってきた。昔は大会に出るたびに板を替えたり新しい滑り止めが出ると替えてみたりフィンを替えたりと、コンテストやっている人は毎年替えるんですよ。今は皆エンジョイするのが目的でサーフィンしているから道具にあまりこだわらない。これが本来の姿なんでしょうけどね。競技志向の人も残っているし、楽しみでサーフィンする人は増えているだろうけど、商売的にはあまり良くないですよ。だって道具が良くなってきたせいで同じ板に5年でも10年でも乗っているし、パワーコードだってなかなか切れないですもん(笑)。昔はリ−シュにヒビが入ってすぐに駄目になった。
年に一回、同年配とサーフトリップには行きますよ、モルジブとか。最近は中国の海南島と台湾。でも中国は大失敗!波がないから毎日朝から円卓で中華料理とビール!台湾は食事が美味しいし波も当たりましたね。頭ちょっとで充分楽しめました。メンタワイとかスマトラとか、同年代の50前後の業界の仲間やメーカーの人とかで行くんですが、船の上だから喧嘩もできないしサーフィンのことしか考えていないから楽しい旅ですよ。
僕は東京に生まれて育ったから海の側に住みたかったんですよ。20代から30代はサーフィンやるためにはどうしたら良いかしか考えてなかった。ここに住むようになって、いつもサーフィンが出来る幸せを宝にしている。仕事をしていても、それだけは忘れないようにしている。成功してお店を増やすとかより、初心を忘れずにここでがんばる。忙しくてサーフィンが出来ない環境に自分を持って行きたくないから。それがこっちに移った最初の目標だったし大切にしたい。
インターネットのおかげで地方にいてもハンデも感じなくなったし、まして目の前がゲレンデ。ここから情報を発信していけばいいと思うんですよ。
店の有るこの場所は風が強い吹きだまりの様なところで、昔は国道も無く個人の持ち物だった。北東の風が吹くと砂がばんばん飛んできて、50年くらい前までは砂丘!年寄りに言わせると、あんな所に誰も住まないって!ハハハ・・・。お店の上にライブカメラを二台つけてホームページで観られるようにしている。みんなそれだけ観て帰っちゃうみたい。店を始めた頃は波の情報が知りたい人から電話がばんばんかかってきて仕事にならなかった。ホームページで朝だけ波の情報を入れたけど、今度は昼の情報を知りたくてかかってくる。写真を撮って朝と昼に載せたけど、それでもかかって来た。それでついに今のライブカメラにしたんです。波の情報を見にホームページに来てくれていいんだけど、商売につながらない。ハハハ!

太郎さんに出会わなかったら今サーフィンやっていたかどうか分からないね

金指源二通称:伊豆のゲンさん63歳

■サーフィンとの出会い

昭和39年6月オリンピックの年に白浜の海で弟と遊んでいた時、日本サーフィン連盟を作った高橋太郎さんがウエスタンの仲間8人くらいとボードを持って国道から出てきたンですよ。後ろに舵みたいなのがついた変な物を持ってきたなって思って、ずーっと見ていたンですよ。30分くらいしたら一人が海からあがって来て「この近くに泊まるところがないか」って聞いてきた。当時はこの辺に宿泊するところは無かった。実家が白浜神社の前にあって、昔は10畳の離れがあって学校の先生が下宿したりしていた。帰って親父に話したら「空いてンだから泊めてやんな」って言ってくれた。太郎さんに話したら喜んでくれて、下田に飯食いに連れて行ってくれた。帰ってから太郎さんのグループがワイキキでサーフィンしている8ミリを見せてもらったンですよ、ものすごく感動したね。 太郎さんたちが帰る日に「宿泊代金はいらない」と親父の言葉を伝えたら、「じゃボード貸しておくからやってみな」って置いて行ってくれた。それからはまっちゃったンですよ。だから太郎さんに出会わなかったら今サーフィンやっていたかどうか分からないね。 それから3年くらい経ってから太郎さんが白浜に来た帰り、車で東京に帰る途中で営業をするから良かったら一緒にボードを見に行くか?て連れて行ってくれた。茅ヶ崎の長谷川家具屋さんに行ったら今のゴッデスの鈴木正さんが店員でいてサーフィンコーナーを任されていた。当時は頭を七三にわけてサーフィンをしない普通のサラリーマンだった。それから東京の太郎さんの家で一泊して次の日に電車で戻ってきました。そのときはまだ工場は無かったンですが、何年か後に外国でシェープを習って帰ってきてから始めたから日本の第一人者じゃないかな? マリブのボードが出来るずっと前のこと。その頃スケッグ(フィン)はベニヤに樹脂を塗って作っていて、ストリンガーもすごく厚いし、レールもすごく厚いから重くてね。


■仕事

高橋太郎さんが茅ヶ崎のゴッデスを立ち上げて、僕はその時の一期生なンですよ、太郎さんのところに二年ほど住み込みでいてスケッグを作っていたンですよ。クロスを何枚も貼り合わせて固まる前にベニヤの型に合わせてカッターで切るンです。そこは二年くらいで帰ってきて白浜にGENJIサーフショップを開いたンですよ。 あるときTEDの阿出川さんがマイク・パーパスって言う外人サーファーを連れてきてしばらく預かってくれと託されたンです。当時のスタープロサーファーで外国の雑誌でしか見たこと無い人に家でいろいろ教えてもらった。そこにカメラマンの佐藤傳次郎さんがやってきて、サーフィンマガジンの記事にすると言って写真を撮って行ったのがこの写真。 しばらく白浜でサーフショップやっていたけど、当時はサーフィンがそんなに普及していなかったからサーフショップをやめて磯料理店をやったりライダーやったり、いろんな仕事をしましたよ。ペンションは37歳で始めました。夏が終わると毎年20日間くらいバリに行っていたンですよ、だからこのペンションのアンテックな家具はその時に買って船便で送ったもの。このペンションの設計も最初建築会社が持ってきたのが可愛過ぎるので、自分でやった。二階は真ん中を吹き抜けにしてどの部屋からもトイレとか洗面所に行きやすくなっている。 今でも地元のサーフショップのライダーやっているが、その店のオーナーはいつも一緒に波乗りしている若い人。私の波乗りをいつも見ているからボードスポンサーになってくれているのだろう。そんじゃなきゃこんな60過ぎたのにボード出さないよ。ウエットは岡君のラッシュがスポンサー、白浜に来るとかならず顔を出してくれてウェアーとかタオルとかいろいろ持ってきてくれる。毎年ウエット変えるのに最初の頃は岡君と直接やっていたけど、今はショップから直接もらう。 (笑)


■サーフィンに燃える

サーフィンと出会ってロングやってショートやってまたロングやって、今でもまだまだ燃えているっていうか、ほんとサーフィンは奥が深い。 続けるために毎日朝4時に起きてストレッチして3キロくらい歩いて、帰ってきてからペンションの支度をしますね。俺がショートに乗っているのを知っているのは白浜に来て見た人くらい、あまり知らないんじゃないかな、ワハハハ! 太郎さんは今もサーフィンやっているかな・・・・。

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体力に自信があるから80まではサーフィンをつづける。

東京都福生生まれ、茅ヶ崎在住。佐藤信雄さん59才

■ ヨッチャンとの付き合い
桜井喜夫と出会ったのは19才の連休に今のカミさんと新島にサーフィンに行った時だから40年の付き合いですね。それ以来ヨッチャンとは毎年1〜2回30年近く新島に通っては同じ民宿に泊まるようになった。 高校2年で波乗りを始めて、すっかりサーフィンにはまっちゃいました。 ヨッチャンは2月のいろりを囲む会と7月の海開きに茅ヶ崎に来て、秋には茨城のアンコウを食べに行ったり、僕が新賀に遊びに行ったりと、結構密に会うんですよ。 ヨッチャンは誰でもウエルカム、でもハンパすると「お前!何やってんだ!」と怒られる。これが結構恐い。でもヨッチャンを悪く言う人はいない。僕なんか兄貴と思っていますから。