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久我孝男
1964年千葉県一宮生まれ
プロサーファー
波乗りを始めたのは小学4年の時でした。太東にまだ漁港が無い頃で岩場が長く続いていているような場所でしたね。太東って海しか無い半端ないド田舎。今は漁港や堤防ができて素人向きのポイントになったけど、昔は太東やマリブはA級ポイントでパーフェクトウエーブが入っていたんですよ。九十九里ドライブインのタニーサーフショップの大谷さんには大変お世話になりました。小学の頃は友達の板を借りて、夏しかサーフしなかったんですが、中二くらいからタニーに通うようになって、ロングジョンとビーバーテールを合わせて着て冬に入るようになったんですよ。大谷さんがくれたボロボロのシャークスキンのやつを自分で修理して着たんです。
■高校一年の転機
最初に出たのはテッドの試合。ロングボードでケープナインティナインという板が有って、それに乗ったりゴッテスの板に乗ったりして大会に出ていました。
自分の転機は高校1年の時でしたね、中2の時は同級生の仲間の中で一番下手だったんですよ。海に一番近いのが俺なのに下手なのが凄く悔しくて・・・、学校をさぼって練習しました(笑)。それからはだんだん上達してきて中学3年の時に全日本のボーイズで優勝。次の年に千葉の支部予選のボーイズで優勝。その時にCHPの中村さんが家に来ないかって誘ってくれたんです。中学生でお金がないから新しいボードも買えないじゃないですか、誘われて早速CHPにすっ飛んで行きました。それからは自転車でCHPに通ってサーフィン。次の年、高校生になってボーイズからジュニアクラスに代わったら支部予選落ちしちゃって、でも静岡の静波でやる大会に補欠で出られると聞いて連れてってもらったんです。そしたら補欠で出たのに優勝しちゃった。それが転機でしたね、プロになりたいと思った。
■プロへの道
中学2年の頃に太東にスケートボードセンターが出来てサーフィンと平行してスケボーもやっていました。それが結構サーフィンの上達に繋がった気がします。CHPの中村さんの所でライダーをしていた頃、CHPでもスケートボードを扱っていて、渋谷のスケートボードパークや平和島のパークまで練習に行っていました。スケボーのプロ大会は、最終戦までいったんですが、上手い子が凄いエアーをきめていた。これは自分とは違うなって、自分はこれ以上出来そうにないなって感じるようになった。トップクラスにはいたけど、サーフィンの方にに将来性があると思うようになった。スケボーやるかサーフィンやるか悩んで中村さんに相談したら、自分で決めなさいと言われた。それでスケボーを止めてサーフィンに絞ったらジュニアで優勝できたんですよ。高校2年の頃にはプロアマの試合がたくさん有って、その試合でプロに混じって3位を3回取れ、プロの善家さんも破って、その時にこれはもうプロになるしかないだろって思った。高校3年の時に知り合ったオーストラリアのライバルが、家にホームスティに来ないかと誘ってくれて、英語は全くダメだったけど、学校をやめて単身サーフィン修行に行ったんです。でもそのうちお金もなくなり、その人のお父さんの家具屋を手伝ったりして3ヶ月ほどいました。オーストラリアはレベルが高いし、道具も進化していてシングルフィンからトライフィンに変わり、テクニックも切り替わった時期でしたね。
■プロとして世界で闘う日々
一回目のプロトライアルでトップ通過して、次の年プロとしてデビュー。丸井の大会の第1戦で優勝しちゃったんですよ。丸井だけで4戦あって4戦のトータルポイントで丸井の世界選手権に出られる良い時代でした。日本のツアーを回って負ける気がしなかった。ヨーロッパやアメリカに行って世界のトップと戦っていたから日本に戻って負けるはずがないって。その頃、トレーニングなんてやっている人もいない時代に自分はトレーニングの機械を借りて毎日プロテインとバナナ食べて、山を登ったり下りたり。サーフィンの呼吸練習もある人から教わってプログラム作って毎日やっていた。大磯でショップをやっている人がトレーナーの免許も持っていてプロサーファーならトレーニングを取り入れた方が良いと教えてくれた。昔、角川からサーフィンの本を出したんですよ、その時東大の研究室の人に水中での体力測定をやってもらったら、自分はボクサーと同じレベルだと言われた。トレーニングでしっかり体力が付いていたんです。19才でチャンピオンになって20才のときの2位、21才から4年連続で勝って楽しくてしょうがない、暗いうちから入っていましたね。でも勝てない時が有ってサーフィンが嫌になった。波回りが悪いとかもあるけど、サーフボードが薄くなってきて自分には合ってなかったんですね、それを替えてればもっと勝っていたかもしれない。エディに出たのは27歳の時、招待されてから4年近くもサイズが小さくてウエイティングでした。1回戦は4位、やばい優勝しちゃうかもと思った。つぎのラウンドでリップから真っ逆さま、ライフガードが上がるかって聞いてきたけど、あと3本やってくるって言った。結局14位でした。
■ボード選びでサーフィンが変わる
世界を回っているときの話なんだけど、リップカールチームにデレクハインドって言うコーチがいるんだ。調子の悪い俺のサーフィンを観ていた時、一緒に回っていた関野タケシに板借りたんですよ、そうしたらもうバシバシで見ていたデレクが、お前この板の方が合うじゃないかって。でもスポンサーがボードメーカーだと他のには乗れない、自分に合う板に乗れないんです。だったら自分で板を選んだ方が良いと思って34才くらいまで選手を続けて30過ぎで8年ぶりに優勝した。その時がたまたまワイドで分厚い板だったので、自分にはそういう板が合っているんだって思いましたね。サーフィンがまた楽しくなったんです。自分に合う板との出会いでサーフィンが変わる、自分が味わった事を世間に伝えたいと思い、ホワイトエンジェルと言うブランドを立ち上げたんです。カムバックサーファーも昔はそういう短くて厚めの板で楽しく波乗りしていたと思うんですよ、その楽しさをもう一度味わって欲しいというコンセプトで板を作っているんですよ。倉庫にしまっておいた板を持って海に来て、もう一度サーフィンしたいと思ってもパドル力が落ちて胸くらいまで沈んでいる。俺も波乗りしすぎて頸椎ヘルニアをやって腕の力が落ち、細い板ではパドルがついて行かない。それが新しい自分の板だと軽くシュッて乗れちゃう、乗れば足が勝手に動く。そういうことで困っている人は沢山いると思う。まるで介護用の板みたいなので名前がホワイトエンジェル(白い天使)なんですよ。
■次世代の育成
最近若い子が少しは出てきているけど日本はまだ競争率が低いね、若い子が多ければ多いでウザイけど(笑)。オーストラリアでは、ウザイのがいっぱいいるんですよ。バーレイとかは夕方5時くらいになると学校終りの子供をお母さんが車で連れてくるんですよ、そうすると40〜50人の子供だらけになっちゃう。それに比べると日本は全然いない。だからレベルが上がらないしブラジルにまかされちゃう。昔世界戦に出た時、選手の名前の横に(ブラジル)なんて書いてあるとブラジリアンだラッキーって、絶対負ける気がしなかったけど今じゃバンバンやられている。日本は楽しむスポーツが多すぎて色々な種目に分散しちゃうからサーフィンのうまい子が出てこない。向こうはスポーツの中でサーフィンの比重が大きい、だから100人の中からの一人の上手い子を選べる。日本ももっとサーフィンが活発になれば、そういう子が出てくると思う。まだまだ先ですけどね。ハワイの波もタヒチの波も乗らなきゃいけない、筋力の無い小さな体じゃ乗りきれない、スピードでかうわけがない。子供の体を作るのに親の代から食べ物を変えていかないといけない。この間展示会にいったんですが、二年前と比べて活気が戻ってきている。右肩上がりになってきていますよ。
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