サーフナッツ サーファーの輪

連載 surfers

永野広子  
1970年鹿児島生まれ
Mahele Hula主宰

 

 

■サーフィンに出会えて良かった
父の転勤にともない鹿児島から徐々に東に転居し、小学校6年の時に大磯に越してきて以来現在も実家があります。サーフィンを始めたのは遅く、30歳を過ぎたころ大磯で始めました。大磯に越して来た後に一時父の転勤で静岡に住んでいたことがあり、周りにサーファーはいたのでサーフィンを始めるチャンスは有ったのですが、その頃はサーフィンを楽しんでいる友達に教えてもらうことで、その人の楽しい時間を奪ってしまうようで教えてと言えなかったンですよね。でもこちらに戻って来てから藤沢の友達とは親しかったせいも有ってサーフィンを教えてと言えたンですよね。どうもその時の私が怖くて教えてくれたみたいです(笑)。その彼はショートボーダーでしたから初めての私にとっては当然乗るのが難しかったけれど、凄く楽しかったです。でも1~2回連れてってもらった後に私が怪我をしてしまい、しばらくサーフィンができませんでした。その時に通っていた大磯のムカサはり治療所に行った時にたまたま私がサーフショーツを履いていたものですから院長の武笠さんから「君サーフィンやるの?」と聞かれ、「サーフィンやりたいけど地元に知り合いが居ないし機会もなくて・・・」と話したら、武笠さんが置いているボードハウスの仲間を紹介してくださったンです。サーフィンに夢中になったのはそれからですね。そのボードハウス仲間の中にマイクもいて、マイクの家が我が家と浜との間だったので海に行く時はマイクをピックアップ、一緒に海に行ってサーフィンを教えてもらいました。それからずっと宮さん達との付き合いが続いているんです。
本当にサーフィンをやって良かったと思いますね。それまでの私は夜飲み歩いたりして不規則な生活をしていたけれど、サーフィンするためには早起きしたいから、それまでの生活とは違って夜は早く寝て朝早く起きてサーフィンして、サーフィンの為に身体作りして、すごく健康的になりましたね。いやなことが有っても海に入ればすべてを忘れて楽しめるし、たとえ波が無くても海に浮かんで風景を見るだけで気持ち良かったです。

 

■千葉一宮暮らし
サーフィンをしている彼と出会って結婚し、湘南に住んでいたのですが、ふと彼の人生設計に乗せられて、千葉一宮に家を構えることになったンです。それまで一宮にはサーフィンで行ったことは有りますが、まさか自分が神奈川から出て暮らすなんて考えたこともありませんでした。いざ引っ越しとなった時、新しい土地へのわくわくよりも神奈川の友人達と離れるのが寂しくて、運転しながら半泣きしていました(笑)。フラはサーフィンより少し早く始めていて、そのおかげで一宮に移り住んですぐに、フラ繋がりで地元の友人ができ、サーフィンを通しても徐々に知り合いが増え、今は一宮の海のそばに暮らしてサーフィンとフラを楽しむ生活にとても満足をしています。サーフィンを始める前の昔の自分からは想像もできない生活をエンジョイしています。年に一度ハワイに行きフラのレッスンを楽しみ、勿論サーフィンもします。こん風に楽しめるのもサーフィンに出会えて、受け入れてくれた大磯のサーフィン仲間が居てくれたおかげですね。


■思い出に残るシーン
サーフィンもフラもそのたびごとに新しい喜びの瞬間があり、どれも思い出深いものが有りますが、昨年ハワイ島ホノリィビーチでサーフィンしていた時に、海の中でローカルから話しかけられ「ここに来てくれて、ありがとう」と言われたことです。ウミガメと一緒に良い波も楽しませてもらったのと合わさって、とても大切な思い出のひとつになりました。
フラの思い出は数々あるのですが、自分が導く立場として経験させて頂いている中では、昨年秋に生徒さん達を初めてハワイアンミュージシャンと共演させてあげられた事ですね。皆が大好きなアーティストの生演奏に合わせて踊る機会を楽しんでくれた事とステージに向けて一団となって頑張ってくれた事はとても良い思い出となり、これからの新しい一歩となりました。学ぶ立場としては、長年強烈に憧れていた踊りへの道が開かれた事ですね。それはハワイ島のあるフラファミリーが継承しているペレにまつわる踊りでカヒコ、古典フラとも呼ばれているものなのですが、一昨年から定期的に日本で学べる機会がスタートしました。そして、そこで出会った仲間達とハワイ島キラウェア火口にほど近い場所でペレにフラを奉納した時は大きな感動と感謝の気持ちでいっぱいになりました。常に新しい喜びと学びを与えてくれるフラは、今の私にとって、とてもとても大切なもので、フラから学んだ教えに沿って自分がより良い存在になれるよう意識をもって暮らしていければと思っています。

高津佐浩行  
宮崎県生まれ  52歳
アクセルサーフオーナー

 

 

■宮崎から湘南へ
波乗りを始めたのは中学3年の冬で、当時としては早かったと思います。地元での大会には出ていましたが、その頃は湘南に出てくる気持ちもなくただサーフィンが楽しくて、ひたすらサーフィンしていました。僕は何のスポーツをしてもそこそこできて直ぐに飽きてしまうのですが、サーフィンはだけは楽しくて続きました。本気でサーフィンをやるようになったのは、ボードの製造と販売をしていたショップに所属するようになってからです。そのショップのオーナーは東京から移り住んだ人なのですが、その方からサーフィンが上手くなりたいなら湘南か千葉に行った方が良いとアドバイスされていました。35〜6年くらい前の話でその頃はインターネットも無くサーフィンに関する情報が乏しい時代でした。それで高校卒業したあと、その方のツテを頼って湘南に来たんです。波は宮崎が良いのですが、みんなのんびりしていて競技思考の人が少なく競争意識が低いんです。前回取材の松尾さんも同じ理由で福岡から出てきて、僕が湘南に出てきた時にはすっかり有名でブイブイ言わしていましたよ(笑)。

 

■オリンピックの影響
サーフィンがオリンピック競技に決まってから今まで興味がなかった人もポジティブに意見を言うようになりましたね。数年前から夏冬関係なく少しずつサーファーが増えてきてレジャーとして定着してきたのではないかと僕は思っています。昔はサーフボードを買うにはサーフショップしかなかったけれど、今は他のスポーツ用具同様インターネットで買えるし、これから始める人はまずは大型スポーツ店に行くでしょうね。僕らは怖い先輩に教えてもらいながらサーフィンを学んで来ましたが、ネットでボードを購入して海に来る人は誰にも教えを乞わず、ルールとかも知らないで海に入るからトラブルにもなるのでしょうが、仕方ないですかね。以前初めてうちのショップに来てくれた子が話してくれたのですが、自分はインターネットでボードを安く買ったのだけど、ショップでボードを買った友達に何で高いショップで買うのかって聞いたんだそうです、そしたらその友達が、物を買うだけじゃなくて他に得る物が沢山あるからショップで買うんだと答えたそうです。サーフィン人口が増えて、その中からそういう人も増えてくれるとショップのオーナーとしては嬉しいですね。浜須賀で21年その前にほかの場所で3年トータル24年ショップをやっています。茅ヶ崎はサーフショップが多いけれど変な競争はなく共存してやっていて仲良いです。
サーフィンがオリンピック競技に選ばれたことで今までの特殊なイメージから他のスポーツ同様身近になり、体験してその魅力に気づいてもらって広がって行くのが一番良いですね。今日なんか波は無いけど、天気は良いし、富士山は見えるし、江ノ島が見えて海に入っているだけで気持ちが良いです。今日はスクールの生徒さんと一緒だったのですが、その方は夏にサーフィンを始めた高齢の方なのですが、楽しくてもっと早くやっていたら良かったと毎週のように来ています。


■世界レベルの子たちの影響は大きい
茅ケ崎の次世代の子供達は朝一でサーフィンしてから皆して学校へすっ飛んで行っている、学校も理解があって環境は良いですよ。この店の前にある高校にも凄く一生懸命やっている子がいっぱいいて、大会でも良い成績を残している。
今サーフィンの世界大会に出ているような子は記者会見での発言がしっかりした内容になっていますね。サーフィンがオリンピック競技に選ばれて以来、いろいろなイベントに出る機会も増え、業界を背負っている責任感を持っているように見えます。まわりの大人がしっかり教育しているのでしょう。これからサーフィンがどんどんメディアに取り上げられて企業が注目してくれれば、大企業のバックアップで若い子を育てる環境が整えられる可能性もあります。それを期待したいです。

松尾博幸  
1964年 福岡県生まれ
RISE&SHINE SURF SNOWオーナー

 

 

■サーフィンとの出会い
波乗りを始めたのは、ビッグウェンズディが日本で上映された時からで、僕が15歳の時です。その頃僕が住んでいた所は福岡県の内陸、過疎化した有明海に面した漁師町でサーフィンとの接点が全くないところだから映画を見て何だこれって感じで衝撃を受けました。親は船舶の仕事をしていたけれどサーフボードを見て、それに乗ってガタでムツゴロウでもすくうのかって言われましたよ。当時サーフィンをやっているのは中学生は僕しかいなくて、回りは大学生や社会人たちだったので、いろいろな所に連れて行ってもらいました。高校受験の時期になって受験はしたものの、以前福岡でお世話になっていたハワイアンジュースというお店で、ドジ井坂さん、その時のコスミックサーフボードのライダーをしていたオガマさん、伊豆の小川修一さんにお会いして話を聞き関東への想いが膨らみ、また、当時ボルトサーフボードのシェイプをしていた上杉さんから湘南に出て来た方が良いぞと言われたのを励みに高校へは行かず上京しました。東京に居た兄貴の所に居候をして湘南や新島でサーフィンしていました。その新島でチサンの人と知り合って、面倒見るから湘南に来いって言ってもらえて茅ケ崎に移りました。その方はカントリーライン(宇佐美さん)のライダーをやっていて、伊勢のNSA全日本に社長の宇佐美さん、酒匂のドンの池谷さんらに連れて行ってもらいチームの宿舎に行った時にダブチームの戸倉さん添田さんなど雑誌でしか見たことがない匆々たるメンバーがいらして、その時に初めて戸倉さんと話ができて、それ以来ずーっと親子のような関係が続いているんです。
初めて出たジュニアの試合で5位に入賞したことでボルトサーフの板を支給して貰えるようになり、そこから本格的にサーフィンが取り組めるようになりました。


■プロになって波乗り以外の多くの事を学んだ
ボルトサーフの倒産後、シェーパーだった上杉さんが独立してやっていたのですが、個人では僕をサポートするのが大変だったようで、20歳の時にプロトライアルに受かったのを機に上杉さんと将来のことをいろいろ話し合った結果、辛かったけど上杉さんと別れてオノグラスワークスでサポートを受ける事にしたんです。オノグラスワークスは四国にTSSCと言うブランドの工場がある大きな会社で、その先代社長であるテリーさんとは宮崎に行った時に知り合って以来うちに来いと誘われていて、プロになったらサポートをしてやると言われていました。そして、プロとしてTSSCのライダーをやりながら茅ヶ崎に住んでいました。28歳の時TSSCの関連で雇われ代表の形でオーストラリアからの輸入ボードの販売を始めました。当時の世界チャンピオン、マーティン・ポッターのシグネチャーサーフボードなのですが、営業を始めて4年後にポッターとシェーパーのダーシーがブレークし、その後ダーシーが立ち上げたサーフボードブランドも扱いました。そしてその4年後に独立、自分でレイジという会社を立ち上げて18年前にサーフショップ兼メーカーとしてスタートしました。プロ活動しながら営業や経理の勉強もしました。80・90年代当時はサーフィンバブルの時代でしたからプロの収入はボードやウエットスーツ、ウェアー、小物、サングラスメーカーなど少額でも全部集まると十分普通に生活してサーキットにも出ることができましたが、今の若い子はプロになっても金銭サポートを受けられるのはトップの一握りの人で、みんなアルバイトをしながらで大変ですよね。今後、サーフビジネスをやっている僕たちがしっかりとサポートを出来るような体制をつくらないといけない気がします。


■オリンピックとサーフィン
サーフィンがオリンピック競技になる事は良いと思う反面寂しさもあるんですよ。一般に認知されてサーフィンのイメージが良くなるだろうし、子供達も始めやすくなると思うし、サーフィン業界が盛り上がるチャンスだとも思います。
いまケリースレーターが凄いウェイブプールを成功させ公開しましたが、人から聞いた話なので定かではありませんが、東京に造る計画の噂を聞いてますし、神戸や、牧之原市(昔の榛原)などにもケリーのウェイブプールではないですけど、建設中との話を聞いてます。
現在、千葉や湘南、伊豆など開催地誘致の運動をしていますが、海外には福島原発事故の影響を心配する人達がいることを聞くと、オリンピックは屋内の競技になるような気もします。ケリースレーターのウェイブプールの波は、チューブも理想的なパーフェクトウェイブ(映像も公開されていて)オリンピックが屋内サーフィンになれば他の競技のようにエアリアル部門とかチューブ部門とかで技を競いあうことになるかもしれません。でも僕は色んな意味でロマンや自然の恩恵とかを見て育ってきているから、自然を相手にする海でのサーフを大事にしたいですけどね。これはあくまでも僕の仮想でしかないですけど・・・


■究極の波に出会えたことに感謝
四国の徳島でビジネスをやっているときでした、海部の近くにTSSCのファクトリーがあって僕が丁度そこに住んでいた時にエクセレントで歴史的な波に巡り会いました。その波を滑りにジェリーロペスさんや有名なプロサーファーらがみんな来ていました。また違う場所のリーフブレイクで、凄いクラシックウエイブの波に乗ってボトムターンしている僕の写真がサーフィンワールドのカバーショットになって、それは一生の宝物です。長くサーフィンをやっていると自然への敬意が年々強くなるし、僕をここまで導いてくれた戸倉さんをはじめ、沢山の人達との_がりにも感謝念が強くなります。昔は僕たちに夢を与えてくれた人がいっぱいいた。サーフィンの雑誌に載っていたトップサーファーや先輩サーファーたちから沢山の刺激と夢を貰った。昔は波が無さそうでも週末に海の近くのお店に行ってワイワイ楽しく話がはずんだけど、今は波情報で波が無いと分かるとお店には誰も来ない、さびし〜(笑)。合理的になりましたね。僕は海に居るだけで幸せを感じますけどね。宮崎の金ヶ浜という所に僕の後輩がオンザビーチというお店をやっているのだけどそこは好きですね。海が目の前で駐車場もエントランスにあり、店の窓越しには海が見えて、裏が山のコンパクトビーチ。美しい景観の海に入っているとホント時間が止まりますね、波が小さくてもそこにいるだけで幸せな気持ちになれる。何よりも自然に感謝です。


■スノーサーフィン
スノーボードはサーフィンと同じ臭いがする。サーフィンで初めてテイクオフしたときの浮遊感と似ている。始めた頃はブームで混んでいる上、高いリフト券買って滑らなくちゃいけないからイマイチ乗りが悪かった、サーファーって人の少ないところで好きなように乗りたいじゃないですか。
ある時、岩手の八幡平の知人のところにダブの戸倉会長さんと行って地元の人にナビゲートしてもらい裏山に行ったら、足元の先が見えなくてもう心臓バクバク、エイ!もう行っちゃえって行った瞬間、脳みそが溶けるっていうかこれってサーフィンと一緒じゃないかって、そこからスイッチが入ってハマっています。そして、4年前からゲンテンスティックの玉井太郎さんの板をやらせてもらっているんです。それまでは個人的に乗っていたんですけど、お店で取り扱えるようになりました。いまのカテゴリーはスノーサーフィン、この板にはジェリーロペスさんも乗っているんですよ。日本は世界的にみても凄く雪質が良いからお金を払ってガイドをお願いしてバックカントリーする価値はあります。ほんと気持ち良いですよヤバイくらい、ワイメア級の斜面を滑るみたいに、僕はそこまでは怖くて出来ないですけどコンパクトバックカントリーを楽しんでいます。

本荘 睦  
プロサーファー、シェイパー、プルメリアサーフデザイン代表
1964年神奈川県平塚生まれ

 

 

平塚の南側、海に近いところで生まれ育った
■サーフィンは部活
中学3年の時クラスメートに誘われて波乗りを始めた。中学では野球をやっていましたが3年生になり受験の為に止めたそのタイミングでサーフィンに出会ってしまいました。肝心の受験勉強はそっちのけ、もー楽しかったですね。もちろん最初は上手く乗れなかったけど、ボードに乗ってパドリングで海に出るだけでも非日常でなかなか無いじゃないですか、面白くて楽しかったですね。その時のボードは2メートルくらいのシングルフィン、今で言うトランジッションボードですね。僕がサーフィンを始めた当時、この辺りは波乗りができない所だったので、入った倶楽部の活動拠点でもある大磯や花水の河口で波乗りを始めました。始めて一年くらい経って大会に出はじめた高校2年の頃、ドミンゴの阿部川さんに「サーフィンを本気でやらないか」って声をかけて頂いてウエットスーツとサーフボードのスポンサーを付けて頂いたので、それからますます頑張って大会に臨みました。そして高校3年になって大学に進学するか就職かという時期には、全日本に出たりローカルの大会で勝てるようになってきていたので、受験勉強で一旦サーフィンを中止するのも就職して休みの日しか波乗りができなくなるのもいやだなと思いました。そんな時、始めた当初からサーフィンや大会のことを色々と教えてもらっていたシェーパーの飯尾さんから「プロを目指してみないか」と背中を押されて決心をしました。親には大学へ行ったつもりで4年間を自由に使わせて欲しいと頼みました。親が画家なのもあって柔軟な考え方をしてくれて許してくれました。僕は何でも真っ直ぐにやる性質なので野球は野球で一生懸命やってきて、その後にサーフィンに出会って高校に入るときにはサーフィンは部活だと考えて海に入っていました。遊びと言うより最初からスポーツと考えていました。でも当時、周りからはサーフィンをやる奴は不良だと見られていましたが、かえってアウトロー的なカッコ良さを感じていましたね。先輩達も遊び心があって本当にカッコ良かった。中学、高校生の時にサーフィンを通して大人の人と一緒に遊べたわけで、車でサーフポイント行くことは勿論ですが、色々なところに連れて行ってもらい色んな事を学ばせてもらいました。高校を卒業する頃からドミンゴの工場で修理から始めてフィンシェープ、ボードサンディングも教えてもらいました。20歳の時にプロテストに合格して、それからはプロ活動をしながら工場の仕事も並行してやっていました。阿部川さんには「サーフィンにまじめであれ」の姿勢を教えてもらいました。


■オリンピック競技としてのサーフィン
サーフィンがオリンピック競技にノミネートされていることは、プロのコンペディターとしてはアマチュアの目標になるし、良いことだと思うし遊びの認知度が強いサーフィンがスポーツ、アスリート競技として認められる事は良ことだと思います。でも一人のサーファーとして言えば、元々カウンターカルチャーなのに主流になるのはどうなの、俺たちは違うんだよっていう葛藤もありますね。若い頃は競技としてサーフィンがメジャーになって欲しい、広がって欲しいと思ってやっていましたが、いま店をやっていながら言うのも変ですが、サーフィンはサーフィンの事を分かる人達が分かっていれば良いんじゃないか、すべての人に理解されなくても、僕らの世界みたいなところが残っていても良いと思うんですよね。昔サーフィンの大流行があってその過熱が収まって現在に至っていると思うのですが、オリンピックで火がついて広がった方が色々な人がサーフィンに出会うチャンスがあって良いとも思うけれど、やはりサーフィンが好きでずーっと黙々とやっている人、メディアに出る訳でもなく本当に好きでやっているソウルサーファー、その人達を核として狭くてもじっくり根付いて行く方がより良いと思っています。オリンピック競技になったから良いスポーツという考え方だけではなく、違ったスポーツの世界が有っても良いのではないかと思います。メディアにも多様な人達がいる事、自分たちのスタイルを守りたい人がいることを理解して欲しいですね。サーフィンは自然を相手にしたスポーツであり、精神論の世界、人によっては宗教的であると言う人もいて、オリンピックを目指すと言うだけの単純なスポーツではないと思います。
今はほとんど理解されていないけれど、オリンピックで認知されて、子供の親達がサーフィンを理解して敷居が低くなることは良いことではありますけどね。


■サーフィンを楽しむための準備
スクールで初心者にサーフィンを教えていますが、最初は敷居が高くても海に入って乗り方さえ覚えてしまえば自分なりに楽しめる。サーフィンの良いところって個人的な所だと思うんですよ、例えば波情報で波が良いと知って海に来て波に乗って、皆が今日は良かったと言っても自分が乗れなかったら全然良くないし、逆にオンショアで×情報でも自分が1本でも良いのに当たればまあまあできたって言うでしょう。波情報は目安なんですよ、今日は良い波といっている人の波と自分の良い波は違う。その自分の波を見つけることができるとどんな時でも楽しめるようになる。初心者でも何十年サーフィンをやって来た人でも一緒の海に入って、それぞれに楽しむことが出来る。
今は色々なスタイルでサーフィンを楽しんでいるじゃないですか、コンペ志向の人が柱になって、その周辺に様々なサーファーがいる。遊び方もシュートボード、ロングボード、ファンボードなど色々なのがあって幅が広がっていて良いことだと思います。そのうえで本当にサーフィンを楽しむとなったらそれなりの準備や覚悟が必要で、その辺をちゃんとやっていくともっとサーフィンが楽しいと思えるようになると思うんです。例えば休みの前の日とか海の仲間と遅くまでお酒を飲むのも良いけど、次の日に波が良かったら、コンディションが良かったらどうする?そのためにも万全でいた方が良いと思うし、そうして良い波に乗って良い思いをすると充実感が違うと思う。サーフィンは自然相手だし、まあまあハードなスポーツじゃないですか、ボードに乗れれば誰でもできるとはいえ、自分でパドリングして沖に出て皆のいるところで波を探して乗る、それを自分で身につけないといけない。やはり海に入るには覚悟がいるしリスクもあるし筋肉痛にもなる。だから筋力を付ける体作りや自己管理をして、長くサーフィンを楽しんで欲しいと思います。

劔持良輔  ケンモチ リョウスケ
横乗りクリエイター&MO3store(エムオースリーストア)オーナー
平塚市生まれ 1974年生まれ 41歳

 

 

■スケートボードからサーフィンへ
スケートボードを始めたのは小学生の頃。電車で大磯駅に行って海岸までダウンヒルし、堤防の壁をウォールライドしながら平塚まで帰るというのが日課でした。それを見ていたローカルサーファーの方から「それだけやれるならサーフィン上手くなるぞ!」と言われてから、サーフィンに興味を持つようになっていきました。その頃、僕の周りにサーフィンをしている人はいなかったので、友達からサーファーを紹介してもらい、ボードを譲り受けてサーフィンに行きました。
最初に乗ったボードはカントリーラインの宇佐美さんがシェイプした80`sトライフィンで、サーフィンを結構やっている人向けの短い板だったので全然乗れませんでしたね。それでも波に乗ることに魅せられて、夢中になりました。板を買うためにバイトを始めると、バイト先で岩手出身のプロサーファー杉本浩さんに出会い、波乗りに誘っていただきました。
その日は結構波が高くてアウトするのも大変で、自分はコテンパンでした。杉本さんは当時流行の蛍光色のタッパを着ていたのでよく見えるはずなのに、自分の事で精一杯で何にも見えなくて、悔しい思いをしたことを覚えています。
それから、プロの技を間近でみて学ぼうと、杉本さんが出る大会について行くようになりました。大磯のドミンゴでバイトしながら、アマチュアの大会に出るようになると、徐々にサーフィンも上達して支部推薦で全日本に出られるようになりました。「全日本で成績残してプロになるぞ!」と意気込んでいた矢先、スケートボードで足を骨折し、大会への出場を断念せざるをえませんでした。その後、平塚のサーフショップユアーズで働く事になり、コンペティターを目指すのではなく、ショップ経営の方向へと進んでいきました。


■サーフショップ経営のこだわり
どの業界にも思いの詰まった良いものを作る人がいます。自分の役目はそんな作り手の思いを使う人に伝えていくことだと考えています。この考えはショップ経営においても,映画祭の運営においても変わりません。お店を経営するにあったっては、ドミンゴの阿部川塾で学んだ、堅実なショップ経営が僕の中で活きています。ユアーズで働いていた時に、サーフィンブーム、スノーボードブーム、スケートボードブームという、横乗りバブルを経験していたのですが、やはりバブルは長く続くわけではないとよくわかりました。その経験から、地元に根付いて何か貢献できるお店にしていきたいと考えるようになりました。
2004年、初めて自分のお店をかまえたのは扇の松商店街という古くからある商店街でした。そこは昔から平塚八幡宮の海へ通じる参道で、祖父が生前、平塚八幡宮のお祭りのお世話をしていた縁のある場所でした。参道の先に海岸があって、毎月最終日曜日にはビーチクリーンを行っています。ローカルの方々とビジターの方々がコミュニケーションをとれる時間になるよう心がけています。また、お店の並びで、気軽にアートやクラフトに触れられて大人も子供も楽しめるようなギャラリーを友人と運営していました。現在は店舗を移転しましたが、公園に隣接していて毎日子供たちが遊びにきてくれるお店です。


■映像の世界へ
映像の世界への道を話すと長くなるので、「HIRATSUKANIAN」という映像作品ができたきっかけについて話します。この作品は劔持良輔が様々な板に乗る映像をまとめたもので、現在PART3まで出ています。監督はタイラー ウォーレンの「WET DREAM」を撮った竹井達男さんです。そもそも、1作目の「HIRATSUKANIAN」の映像は作品にするために撮影したものではありませんでした。シェイパーの川南 活さんが作り出す様々なタイプの板に乗り、その報告として活さんに見せるために撮っていた記録映像だったのです。それを竹井監督が観て、興味を持たれて「作品にしよう」と誘ってくれたんです。この映像がこの後の作品出演へと僕を導いてくれました。そして、出演作品を地元の映画館で上映できるという、またとない機会に恵まれました。土地柄もあり、なかなか好評でその後も同様の機会を頂いたのですが、だんだん自分の出演作ばかりではなくて、色々な人の作品を沢山集めて上映したら面白いのではないかと思うようになりました。それが「横乗日本映画祭」の始まりです。


■横乗日本映画祭
今はより多くの人にサーフィンを知ってもらいたくて「横乗日本映画祭」の活動に力を入れています。この映画祭は、サーフィン・スノーボード・スケートボードの「横乗り」と呼ばれる_アクションスポーツの映像を集めて映画館にて一週間上映するものです。日本人が出演、または製作にたずさわった様々なスタイルの映像作品を選りすぐって上映しています。今回で第4回を迎え、茅ケ崎のAEONシネマで11月7日(土)から13日(金)まで開催します。それに先立ち、小樽で一日限定開催を行いましたが、おかげさまで会場は満員で大盛況でした。今後は全国展開を考えていますので、その第一歩として最高のものになりました。映画館で開催することでサーフィンの世界を知らない人でも気軽に入れて、サーフィンって素敵だなって思ってもらえたら嬉しいです。一時的なブームじゃなく、海やサーフィンの魅力を知ってサーフィンを始めるきっかけになればと思っています。ゆくゆくはアジア圏で映画祭を開催して、アジア全体でサーフィンを盛り上げていきたいと考えています。


児玉ジョージ
ボードビルダー
1976年東京生まれ 横浜元町育ち38歳

 

 

■サーフィンとの出会い
小さい頃からスケートボードをやっていたけど、高校の時に友人からサーフィン面白いからやってみたらって誘われ、電車で鵠沼海岸に行って初めて波の上でテイクオフした時、この世にキントン雲が有るのか!って思いましたよ。スケートボードともスノーボードとも違う空中に浮かぶ感じ、そこから波乗りにハマりました。毎日学校には行かないで電車で鵠沼海岸に通って波乗りばかりしていました。スケートボードは今も趣味でやっているんですがスケートボードもスノーボードもドロップなんですよ、だけど波乗りだけはテイクオフ、そこが他の二つとは違う魅力的なところかな。


■大貫さん、カツさんとの出会い
高校卒業後も波乗りにハマっちゃって仕事をしてお金を貯めてはカリフォルニアだハワイだと波乗りの為だけに旅をしてあちこち行きました。
そのとき、今でもこの辺りで波乗りする仲間なんですけど、旅先のカリフォルニアで偶然出会って、波乗りしていたんですよ。その友人の紹介でcanninというサーフボードの工場で勉強していた大貫さんに会いにいったのがきっかけで大貫さんと一緒に波乗りするようになりました。旅が終わって日本に帰って来て、次の旅に向けてアルバイトをしていた時に大貫さんからフィンのブランドを立ち上げたって連絡をもらいました。今有る茅ケ崎のカツさんのシェイプルームの側にフリーフローサーフボード、アクショングラスワークスという大貫さんのブラッシング工場があったんです。人手が足りないから手伝ってくれないかって誘われたんです、それが24歳の時。とりあえず波乗りはできるからって言われて、給料も聞かずに働き始めました。給料なんてあってないような物ですが、波乗りできれば言うことはありませんでした。大貫さんも波乗りに狂っていて、波が出るとすべてをほったらかして波乗りする人ですから、そんな時に仕事なんてしていたら怒られちゃいます。良い意味の昔ながらのサーフボードファクトリーです。
何も知らなかったけれど、取りあえずフィン作りと修理をしながら自分の口分を何とか稼ぎ、毎日波乗りをしていました。そこで3年くらい働いた頃、丁度ゼロウエットスーツの川南正(カツの兄)さんから連絡があって、カツさんが 南の島から帰ってブランドを立ち上げるのに、シェイプルームを探していると聞いて大貫さんがシェイプルームを貸したんです。それがカツさんの日本での再スタートで、その時初めてカツさんに会いました。


■あらゆるボードに乗って来たご褒美
5年前に自分のブランドを立ち上げてやっと始まった感じです。やはり最終的には自分のボードを自分で作りたくなるじゃないですか、他で働いている時はそこまで頭が回らなかったけれど、やっとこの1〜2年生活も回ってきて、これからかなって言う段階です。
板を作ってはテスト、作ってはテストの繰り返しです。自分がラッキーだったのは波乗りをロングボードから始めたことです。始めた当時、横浜に有ったロングボードの店に通っていました。オーナーがデカイハードな昔のボードに乗り白い髪はロングヘアー、風が吹くとビール飲んで過ごす。高校生ながらその姿がカッコ良くてシビレましたね。その人にロングボードを乗るように勧められて、いろんなロングボードに乗っていました。大貫さんと出会ったのはその後で、工場に行ったらショートボードなんです。大貫さんからショートボードをやるように言われ、t-reef surfboardでショートボードを渡され、ずっとそれに乗っていました。大貫さんは毎年ハワイに連れてってくれて、3年ぐらいノースに行っていました。ノースはそれまでロングボードのイメージだけだったんですが、そこから変わってきましたね。
その上、カツさんが近くにいる事で今までの工場の流れが変わりましたね。カツさんがいろんな板削るじゃないですか、長いのや短いツインフィンとか。カツさんが来てからテストのボードがいっぱい出てくるんですよ、僕は働いている間は自分の板を持っていなくて、あてがわれていたんです。その工場にある板で波乗りするんです。乗っていた板が中古で出て行っちゃう事もあります。台風で波があって自分が気に入っていたボードで明日は乗ろうと思っていても、翌日は売れちゃって無いことが有るんです。あるのが8フィートのトライフィンとか7フィートのシングルフィンだったり、そんな感じで毎日乗る板が違うんです。でも今となってみるとロングからショートまでいろんなボードに乗れたことはボードを作る者にとって凄くラッキーだったと思います。


■どこでもサーフトリップ
波が良ければどこでも入りますが、この葉山辺りも出来ますよ。うねりの向きと風さえ合えば乗れる場所は沢山有ります。波を探して行くんですよ、サーフィトリップです。この辺りは東の風と南東もオフショアになる。台風のスエルが入ってクローズアウトして皆あきらめて帰っちゃっても、僕は良いポイント見つけて入ります。日本じゃないみたいな波が立つグーフィーポイントを三年外したけど三年目に当てた時は嬉しかった!そういうサーフトリップが最高に楽しいです。伊豆とか四国でも同じようにローカルに情報をもらいながら自分なりにリサーチしていますよ。
乗る時もボトムはどうなっているかとか、うねりはどうかとかリサーチから入る、それが楽しい。同じ波でも波が小さくなれば自分で走る面を探して、ポケットを探しながら波乗りする。だから波の力を貰ってターンを始める、グライドする板を作っています。


■サーフィンの楽しみ方は一つじゃない
今はショートボードを頼まれたら断るかな、多分パキパキのショートボードだったら断るな。たいした本数削っていないけど2〜3本削ってはあーじゃないこーじゃないと、まだ納得のいくボードが出来てない。がっかりしたり良い所を見つけたりの試行錯誤。プレーナーの使い方にしてもまだまだ、でも修理やりながら自分なりに徐々にできてきているから楽しいですね。
湘南に毎日波が有ったら違うんでしょうが、波乗りは海に行けばできるというものじゃないからスポーツとして広がりにくいのかもしれません。でも長い板で波乗りすればショートよりできる日が多いし、人はそれぞれ波との接し方がいろいろ違う、昔と違って今はフィンが1本から5本、フィンがないのもある。サーフィンの楽しみ方って一つじゃない。だから僕の板が欲しいって言う人とは、どんな波乗りがしたいか話し合うことから始める。どんな波乗りが好きなのか話していると盛り上がるし、そこから作るのがまた楽しいですね。
ボード作りにおいては、大貫さんとカツさんに出会ったことで多くのことを学びました。お二人と肩を並べるのは無理かも知れないけど、時間をかけてそこを目指したいです。

川南 活(かわみなみ かつ)
1951年 鎌倉 稲村ケ崎生まれ
シェイパー
「KATSU.KAWAMINAMI SURFBOAD」

 

 

■波乗りのスタートは遅かった。
中学の時遊び仲間の4人の内3人がサーフィンを始めたんだけど、僕は両親からサーフィンは不良がやるものだからと止められ、僕だけ遅れて高校に入ってから始めました。始めたのは自宅の有る稲村ケ崎。その当時僕らの憧れの国はアメリカでした。アメリカから来た色んな物に憧れていましたよ。サーフィンもその一つでした。当然のことだけど英語をしゃべる外人の子は可愛いし、着ている服もカッコ良く見えて真似したかったですね。


■海外遊学
海外での生活を始めるきっかけになったのは、大学一年の時。日本の大学へ入ったけれど、その頃の大学は紛争で騒がしい時期でした。それも有って、かねてからの憧れだったアメリカ圏での生活を留学という形で始めました。でも行った先はミクロネシアですからね、留学と言うよりは遊学が正しいですね。ことわざに、「よく学びよく遊べ」とありますが、僕の場合は遊学ですから、よく遊びが先で、後で時間が有れば学びました(笑)。
ミクロネシアはハワイのように大きな島ではないけれど、ポナペンやクアジェランなど波はあるし空いているし良かったですよ、そして暮らしやすいところです。


■「KATSU.KAWAMINAMI SURFBOAD」立ち上げ
学生の時に4年向こうにいて、1976年にいったん日本に帰って来て稲村で仕事をした後1979年に自分のサーフボードブランドを立ち上げました。どこかで修業をしたわけでは有りませんが、いろいろな物を見て真似て作っていたので製作手法は自然に身についていたんですよ。ちゃんとしたアメリカブランドのものは、当時1ドル360円時代でしたから大学出の初任給の3倍の値段で手が出ませんでした。シェイプの仕事を4年続け、ショートボードのトライフィンが流行り出したころ、くすぶっていた南の島暮らし願望が再燃して、再度ミクロネシアへ移住しました。


■南の島の結婚生活
二度目の移住の時に現地で出会ったアメリカ人女性と結婚しました。見晴らしの良い森の高台にある家を買いました。でも自分のブランドのボードをお店に置いてもらっていた関係上、時々日本に帰ってはシェイプをしていました。そんなサーフィン三昧の生活で収入も沢山有れば言うこと無いですが、そう旨くはいきませんでしたね(笑)。波を探してはミクロネシアのいろんな島に出かけ、そしてそこに住んで波乗りをしました。


■四季のある日本の良さを実感
ミクロネシアの家が台風でぶっ飛んだのをきっかけにして、日本に帰って来てもう11年になります。ミクロネシアには合計30年くらい住んでいたので丁度半々の年数になりましたね。ミクロネシアから帰ってからもそんなに落ち着いていたわけではなく、良い波を求めて旅はしていました。もう一度是非行ってみたいのはスペインのバスク地方にあるギタリーですね。もう海外移住をすることは有りませんが、冬になると南の島に行きたくはなりますね。今は、暑いだけじゃない四季の有る日本の良さを実感しています。四季があると食べ物も美味しいですからね。僕くらいの歳になると食にこだわるようになりますね。南の島へは旅行で行きますよ。


■サーフィンとシェイプはずっと続けたい
サーフィンは当然地元の稲村や七里ガ浜が多いですが、混んでいるところでのサーフィンは避けたいですね。一番好きなのは鎌倉沖ですね。波は一年に何度も無いですが、あそこはローカルがないし、アウトしやすいし、乗るとストロークを長く楽しめるし、昔なじみのサーファーが遠くから来て久々に会えるのも良いですね。良い歳のそいつらと誰が一番さきに落ちるかとか最後まで落ちずに乗れるか競争するのも楽しい。
今、茅ケ崎の工房へ週に5日通って仕事をしています。この場所には色んな業種の工房が集まっていて面白いですよ。ずっとここでシェイプの仕事を続けて行きたいですね。
これからのサーフィンは、今よりメジャーになって行く可能性が有りますよね。いろんな業界のトップの人がサーフィンしていたり、若い時にやっていたけれど、止めていた人が仕事に成功して時間的にも金銭的にも余裕ができて再び始めたり、イメージ広告のビジュアルに使われるようにもなっていいますしね。メイドインジャパンのボードの性能の良さもあって、以前のサーフィンブームとは違った形でサーフィンのブームが再来する可能性がありますよね。楽しみです。

小川修一
伊豆下田生まれ  65歳
サーフボードブランド
 WATER FLASHオーナー&シェイパー

 

 

■サーフィンとの出会い
17歳の夏、その当時ではサーフィンがとても上手な白浜の友達に薦められてロングでサーフィンを始め、今年で48年目になる。その頃の白浜は、サーフィンなんてやっている者は他にいなくて、東京から慶応ボーイやお金持ちの人達が、流行りの車や外車を走らせて遊びに来ていた。白浜の友人が海外にいってしまい、サーフィンするのは僕くらいしかいなくて、その人たちに声をかけらてれてよく一緒に遊びましたよ。実は18歳の頃から友達と二人で歌をやっていて、新人オーデションを受けたら1位になっちゃってプロダクションの目にとまりレコードまで出したんですよ。テレビやラジオにも出て次のレコードまで決まっていたんだけど、歌手としてのプロ意識が持てなくて途中で降りてしまったんです。関係者の方には本当に悪いことをしたと思っている。丁度その頃、千葉の鴨川で行われた第4回全日本ジュニアで4位に入り気持ちがサーフィンの方に走りだしたんです。
白浜には東京からテッドの阿出川さん、ダックスの高橋さん、湘南のゴッデスの鈴木さん達が自分達の作った板をテストしに来ていて、その中に鈴木三平さんもいた。三平さんはシニアの全日本チャンピオンで、その当時とても格好良く見えて、自分も板作りをやりたいと思い始め、三平さんに板作りをしたいと頼んで就職した。その水沢工業という会社はFRPの会社で、中にサーフボード(ウェストコーストサーフボード)の部門があり、そこで働いていたのが出川さんと田沼さんだった。その後その二人がパイオニアモスのボードを作るために別れ、残った三平さんと俺で三平さんから教えられながらウェストコーストを作った。
それから伊豆に戻り自宅の倉庫で何本か板を作ったが、商売にはならずやめた。  


■プロからシェイパーへ
ゴッテスのライダーになって、サーフィンで多少の収入は有ったけど、結婚したから女房を食わせなきゃいけない。でももっともっとサーフィンがやりたくて22歳頃に下田で喫茶店を始めたんです。もちろん喫茶店は女房に任せっきり、俺はサーフィンばかりしていました。1965年にNSA(日本サーフィン連盟)ができて最初の一級サーファー(当時の称号)は俺、出川さん、ドジ井坂さん、川井さんなど6人だった。全国のいろんな大会に招待されて、そこで勝たせてもらいましたよ。俺が25才くらいのころに、ボードメーカーの鈴木さん、高橋さん、阿出川さんを中心に有志達がJSOと言う組織を立ち上げ、外国のサーファー達も参加出来る国際大会が何年間か行われ、俺もその大会には必ず出場した思い出がある。その後日本のサーフィン界でもプロサーファーの大会が必要な状況になった様で、NSAからプロの組織としてNPSAが出来てプロとアマが別れてプロ制度が出来た。俺も27才の時にプロになり、34〜5才頃までトップ16のシードを維持できた。その当時での最年長シードプロだったと思う。
今のプロはサーフィンで稼ぐのが大変だけど、あの頃のトッププロはそれなりの収入があったと思う。トップ16に入ればその収入で国内の大会や海外旅行などに行けるようになり、それなりの生活が出来た。息子の頃は、世の中がサーフィンをスポーツとして扱い出し、俺の時代よりさらに良い時代になり世界の試合を回れたと思う。その長男が生まれ、次に長女が生まれた31歳のころ、プロとしての収入も有ったけど喫茶店も9年やって古くなってきたし、先々の事も考えて喫茶店を閉め、経験のあるボード作りの道に戻った。試合が有れば出て、月〜金は茅ケ崎でシェイパーの仕事をし、金〜日は白浜に帰る生活を続けていたけれど、1993年俺が44歳の時に親父が亡くなってからは伊豆に戻り、シェープルームだけを伊豆に移した。


■日本のプロサーファーの今後
日本のサーファーもこれから世界のトップを狙うなら、金銭的な支援と外国のジャッジで高得点がもらえるスタイルの良いサーフィンを身につけなくてはやっていけないし、外国人に劣らない体格も必要。
ある超有名なプロサーファーの親父なんて10歳の時からAPSの試合がある世界中の海に連れて行って練習させ、この海で勝て!ここで10フィートの波に乗れなければお前のための支援は止めると言い聞かせていたそうだ。アメリカのカリフォルニア出身のトッププロ達は、大体がみな海辺に住めるお金持ちの家の奴らだ。オーストラリアのこれもまた超有名なプロなんて地元の大新聞社の御曹司だと聞いたことがある。日本の普通のサラリーマンでは、とても真似できない支援だよ。うちの息子の場合は、俺のボードを与えられたし、ウエットも提供されていた。小学校の時は八丈島、中学校ではバリ島、高校生ではハワイへ一緒に連れて行っていたし、高校を卒業したらすぐにオーストラリアに留学もさせた。サーフィン文化を知ることや語学は世界へ出るには必要不可欠だからね。オーストラリアではリップカールやアロハサーフボードのグレッグローに世話になり息子の環境は普通よりは良かった。そしてプロになって世界を回ると、そこにいるトップサーファーたちの支援環境を実際に見聞きして、自分が今後どこまでやれるかという判断や決断も早くできたのだと思う。


■サーフィンを楽しむ
つい最近、病気を患ってサーフィンや仕事を休んでいたのですが、今はすっかり元の体に戻ったので、これからもボード作りをしながら波が有ればサーフィンを楽しむという生活を続けますよ。
世界のトップを目指すサーフィンも有れば、自分のサーフィン環境に合わせて国内競技でトップを競うもあり、サラリーマンや学生が週末や休暇に楽しむのもサーフィン。とにかく沢山の人にサーフィンを楽しんで欲しいですね。

山本吉秀
神奈川県湯河原生まれ 64歳
吉浜のサーフショップ「WAV`Y」オーナー

 

 

■サーフィンとの出会い
49年前に1つ上の先輩がロングボードを借りて来た時に、おまえもやってみるかいって言われて見よう見まねでパドルして一発目で立てたんだよ!それ以来夢中になったねー。
当時はサーフィンやる人間なんて数えるほどしかいなかったから、茅ケ崎からこっちまでサーフィンやる奴は全部知り会い。サーフィンやる場所も多くないし、今日はここでやるぞ〜!と言えば全員そこに集まって来たよ。でも冬はやらなかったね、何しろ今みたいに良いウエットなんて無いし、ウエットができた当初も元が潜水用の素材で厚くて重いから動きも悪い。その上ロングジョンとビーバーテールの組み合わせしか無くて、水がガンガン入って来て冬は寒くて長くは入っていられなかったよ。海は目の前だし、波さえあればサーフィンしていたよ。夢中になってやっていた時期に一時ヘルニアになってサーフィン止めていた時期があった。ジッとして何もしなくても治らなくて、運動して腰や背中に筋肉を付けていかないとダメと友人の整骨医のアドバイスとケアもあって、長めのボードでリハビリしながら治したよ。やっぱサーフィンが一番の特効薬だったね。最近は、良い波が入っていれば波乗りして、1ラウンドであがる。台風とかでよっぽど良い波の日は2ラウンドも有るけどね。そしてあがってきたら…まずビール!(笑)ウマイねー!いくら良い波でも、サーフィンを一人でするのはつまらないね。やっぱり誰かと波を共有して、今乗った波がどうだとか、今日一の波をゲットしたとか、譲った波でパーリングしようものならクソミソに言い合うとか・・・そんな話をしながら波に乗る方が楽しい。  


■スパー台風で吉浜の地形が変化
昭和63年に凄い台風が来て吉浜の玉砂利がみな打ち上がって丘ができてしまった事が有る。浜がドン深になってサーフィンはもちろん、海水浴だって危険でできなくなる。砂を海に戻してくれるように仲間と幾度も町役場にお願いに行ったよ。役場が動いてくれなかったら自分達で何とかしようかと思っていた矢先、町役場が砂を戻してくれることになった。工事が11月に完了して後、吉浜に初めて波が打った日の事は忘れられない。今でもその波が目に焼き付いているよ。感動したよー!!その日は、昭和天皇が崩御された昭和64年1月7日だった。


■西湘の最西端ポイント
湘南に波が無い=吉浜が混んでいる。なぜなら湘南の波を探して東から車で走ってくると、西湘吉浜にたどり着く。さすがにこの先の伊豆は遠いからここを終点にする人が多いね。
それに高速を使えば東京からでも近いからね。ここは南のうねりが入る日が良いんだ、しかも湘南に波が有る時が最高に良いね。なぜなら地元の奴ばかりになって空いていて良いよ~。(笑)最近、吉浜でも年配のサーファーが増えて、スクールにも入って来る。昔やっていて、再度始めた人もいれば、もっと上手くなりたくて来る人もいる。技術を教えることはできても、残念なことに始めた時に身に付いたスタイルを変えるのは殆ど無理だね。


■サーフィンはスタイルが大切
今、小さい時からサーフィンを教えていた村上舜、蓮の兄弟と松下諒大たちが、全日本で優勝したり、海外の試合に出て行ったりしているのを見て楽しませてもらっているよ。楽しむってゆうか、親御さん同様にハラハラドキドキしながら試合のライブを見ているよ。最近はアマの試合もライブ中継しているからね、ライブ見ていて教え子がワン・ツーフィニッシュした時は嬉しかったねー、飛びあがって喜んじゃったよ!サーフィンは小さい時からちゃんと正しいスタイルを身につけていれば、後々レベルが上げられる。そこを怠っていたら、いくら練習しても良い結果は出ない。 優勝できるような選手に育てるにはいろいろ大変、もちろん親御さんもね。俺ももうあの子達で最後だね。だって育てるには10年は掛るからね。10年後、俺は74歳だもの。
日本のプロサーファーもジュニアの時から始めた子が増えて、世界レベルに近づいてきたけど、まだまだ歴史は浅いから層が薄い。民族的な体格の差や波の環境も有って世界レベルに近づくためには、自分も周囲も色んな努力が必要になる。



■奥深さゆえにサーフィンの虜になる
サーフィンに魅せられると楽しくて止められない。サーフィンは何が良いのか、楽しいのか・・・他のスポーツでも同じことが云えると思うけど、これで良いという終わりが無いからなんだよね。サーフィンの相手は大自然の海、刻々と変わる波や風が相手。波を見極めて、その波とどう合わせて行けるか、自分だけが分かる真のパーフェクトを目指すわけだよ、俺はそこが楽しいんだと思うよ。

坂井正己
昭和28年横浜生まれ
平塚のサーフショップ「サーフハット」オーナー


 

 

■磯っ子サーファー
生まれは横浜ですが、親の仕事で直ぐに平塚に移り幼稚園も平塚でした。波乗りは高校に入って辻堂の同級生が波乗りをやっていたのがきっかけで始めました。その家にボードを置かせてもらって学校の帰りにやっていました。高校2年のクラス替えで大磯の関野くんと知り会って、大磯に行くようになったんです。当時は辻堂より大磯の方が波の力がありましたね、その頃は港が今ほど大きくなくて南西とか西のうねりがダイレクトに入ってパワーがあった。今は堤防が伸びてそれが入ってこなくなって波が柔らかくなった。
平塚のサーファーは僕のことを大磯の人間だと思っていたくらい大磯に入っていた。そのころ大磯で入っている子は大磯子供会で、花水で入っている子は花水子供会と言われて平塚と大磯で別れていて、支部も別れていたんです。
僕はアマチュアとしてずっと大会に出ていて、会社勤めを始めてからは自由に波乗りができなくなったけど、波が良いと朝一で波乗りしてから会社に行っていた。楽しく波に乗れれば良いと思っていた。ところが弟がやる予定で進んでいたサーフショップを弟がやれなくなって、店の話は進んでしまって止める訳にもいかず、結局自分でやることにして、24才の時にサラリーマンを辞めて今のサーフハットを始めたんです。それから60歳の今までずーっと波乗りに関わって来た。

 


■ローカルとしての務めを果したい。
大磯に行くようになって最初に入ったチームがマーメイドなんです。当時はいくつかのチームが有って、チームは違うけどいつも一緒にやっていた仲間の関野くんや長島くん、マーメイドの僕たち5人で新しいチームを作った。店を始めて店のチームも持ったけど、マーメイドの初代会長から大磯のローカルにチームを継いで欲しいと言われ、僕がマーメイドを引き継ぎました。一時、若いのにやらせたのですが、変な方向に進んじゃって、再度僕がしきり直したんです。サーファーは昔周りからアウトローと見られていたけど、僕たちは町の人とも漁師とも一緒に動けるし、いろいろ話もする。若い子が港でおかしな事をやってトラブルになれば、先輩として謝りに行って修復もする。若い子の何人かはそんなところを見て、僕らの行動の意味が分かってくれるようになる。すべての子には伝わらないだろうけどね。もちろん真面目な子はいるよ、大澤君なんか小さい頃から知っているけど真面目だよ、そんな子が沢山出てくると世間の見方も変わってくるんでしょうね。海の中で若い子にいろいろ伝えるのも先輩サーファーの義務と思うけど、波を目の前にすると、そんなこと忘れちゃって伝えきれてない。
サーフィンに決まったルールがないのもいけない。今有るルールは大会のルール=マナーで、大会に出ていない人には分からないもの。

 

■サーフィンの良さをもっと多くの子や人に伝えたい
若いときは野球とかサッカーとかいろいろスポーツをやったけど、波乗りだけは他のスポーツと違っていた。波乗りは自分一人で出来る自由なスポーツ。海に行けば仲間がいて、絶えず一緒にいなくても波乗りという共通な話題で一瞬にして一体になれる。
大磯では年に一回小さな子供対象にサーフィンを教えている。本当は回数を増やしたいけど参加者一人に対し三人の補助を付けないといけないと指導が入り、補助の人数を揃えるのが大変なんです。僕はそこまでの人数は必要ないと思うけど、今は昔より過保護になっていて子供が少しでも切ったりぶつけたりすると親が飛んできて止めさせちゃうからね。裸でやるスポーツだから多少の怪我は当たりだと思うけどね。大会の開催日に台風の影響で良い波が入っていたんだけど、市の担当から危険なので止めてくれと言われて市長杯を中止したこともある。多くの人にサーフィンを理解してもらうには、いろいろ面倒なことも有るし時間もかかる。

 

■サーフィンを理解してもらうには自分達から行動するしかない
海を汚し、問題を起こすのは全部サーファーじゃないかって思われているところがあって、その誤解を解くためにも何か活動をしようということになり、湘南西支部が海上保安庁のやっている水難救済会に入って一緒に活動するようになったんです。いろんな話をしているうちに波乗りの事を徐々に解ってくれるようになって、それからは和気あいあいです。他の支部の連中からは、漁師と仲良くなったり、水難救済会に入れたことを不思議がられた。全国で初めてだったらしいです。何年か前にその活動が認められて、県知事の黒岩さんから表彰状を貰った。
平塚の波乗り禁止の所で波乗りしていた奴がいて漁師とトラブった時には漁業組合に飛んで行って、ローカルの自分達でパトロールして禁止エリアで波乗りをさせないようする提案したら漁師達も一緒に見回るようになったんです。漁師とサーファーが上手くいっている事を市の方でも喜んでくれて、懇親イベントをやろうという話になって、釣りの平塚市長杯が始まった。JSAも賛同して生コン前で波乗りの大会もするようになった。その後サンライフさんが協賛してくれて、平塚市長杯サンライフカップという大会は十数年続けています。今も生コン前でトラブルがないですよ。これが本当のローカルじゃないかな。今この組合はジェットスキーのパトロールを定期的にやっています。この活動は僕がいる限りは続けますよ。

宮本邦夫
昭和25年11月東京吉祥寺生まれ
元JPSA プロロングボーダー、ボードハウス管理人


 

 

■サーフィンとの出会い
サーフィンは大学卒業の23才のとき雑誌のポパイの1ページで出会った。俺は大学4年のとき結婚したんだけど、それまではワンダーフォーゲル部で山登りをしていてアルプスの北も南も全部行ったよ、ワンゲルだと山に行くと3日から4日、高いところだと1週間はかかるから結婚したらそうそう行けないから、1日で出来るものはないか探していたの。結婚した当時、吉祥寺の成蹊大学近くのスナックでアルバイトしていたんだけど、おしゃれな大学の近くだけあって、ドロップアウトの固定フィンのサーフボードが飾ってあつた。そのボードを譲ってもらってノリでサーフィンやろうってことになった。
吉祥寺から座間に移り住んでからは、サーフィンにのめり込んで、しょっちゅう大磯まで波乗り通い。俺がサーフィンをはじめた頃の大磯は、今ほど堤防が長くなくて本当に良い波が立っていた。今ある沖のテトラくらいの所からレギュラーがブアーって入ってた。南西のオンショアの時なんて平塚から東が全然ダメでも大磯だけは亀岩沖からド三角、その波にもっと上手く乗りたくてドミンゴのヨッチャン(阿部川芳夫)に当時流行ってたツインフィンの板を作ってもらったんだ。
90年代に入ってJPSAでロングを再度普及させようする動きがあって、俺も35歳の頃にロングを始めていたんだけど、41歳でサーキット二期目のロングのプロになった。趣味の延長だし、当然プロで食えないから、大手スーパーの仕事を続けながら試合に出ていた。一回だけ14位になり賞金5,000円をもらったけど、エントリーフィーは20,000円だった(笑)。最初の頃JPSA のロングの大会を西の河口でもやっていた。昔は上流にダムも無かったし良い波だったよ。太平洋に台風が上がってくると一週間通ったよ、真っ暗なうちから行って一、二時間やってそれから仕事に行っていた。東のリーフにも先輩や仲間に誘われてよく行った。みんな若かったぁ!


■大好きな海の近くに転居
両親が茨城で暮らしていたんけど、高齢になるし、いずれ一緒に暮らそうと思っていた。46歳の時、思いきって二宮に家を買った。
座間のときからずっと大磯に通っていて、本当は大磯に住みたかったけど、当時の大磯は、大きな屋敷跡の三分割みたいなのばかりで高くて買えなかった。大磯に駐車場を借りて息子と朝一通いしたよ。その息子 (宮本蔵人)も今や36才で教習所の教官をしながらJPSA の現役プロロングボーダー。小さい頃からサッカーをやっていたけど、高校卒業後、浪人して家にいた時にサーフィンやれよってロングからやらしたの。結構まじめなやつで、俺の1950〜60年代の古いビデオを見て研究していた。そしたらプロになっちゃった。大磯で上手いロングボーダーを見たら多分俺の息子だよ、クラシックスタイルはピカイチだから。

 

■ハワイサーフ
50歳の時に選択定年で退職。大学生の息子を連れて一ヵ月ほどハワイに行った。もちろん毎日サーフィン三昧。ホテルはワイキキにしたけど、レンタカーを借りてノースとウエストをメインにサーフィンした。ノースではハワイの友人が好きなハレイワの西のモクレアビーチやチャンズリーフ、ハレイワで入った。ウエストのマイリビーチで、テイクオフしようとした波がせり上がってデカくなった時は死ぬか!?と思ったよ。俺なんか、怖い!って思ったけど、向こうのおじいさんがボロボロの板で平気で乗ってるんだよね(笑)。俺が好きな所はウエストのマカハ。マカハでも軍のベースが近くにあるポカイベイってところが好きなんだ。当時はまだ日本人があまり来ないところで、たまに会っても二人とも真っ黒だったから現地のやつだと思って声も掛けてこなかったよ。

 

■ボードハウス管理人
若い頃は、デカイ波に乗った瞬間のスリルがたまらなく良かったけど、今は体幹が衰えているからデカイのはダメダメだよー(笑)。JPSAは息子がプロになった時に辞めたけど、サーフィンをやって友達が増えたね。静岡や伊勢に行っても、茨城や仙台に上がっても友達がいっぱいいる。皆でボードハウスをシェアし始めて12年になるけど、ハウスに集まる若い奴との交流も楽しい。サーフィンをやってホント良かったと思う。大磯には俺より年上で頑張ってるサーファーが何人も居るし、俺も生きている限り楽しく波に乗り続けたいね。

久米大志
1997年 神奈川県茅ヶ崎生まれ


 

 

“のぶくん”(大澤伸幸さん)とはホームが一緒で、1人で練習している姿を小さい時から見ていて、自分も“のぶくん”みたいになりたいと憧れていました。海の中って自然にコミュニケーションができるじゃないですか、“のぶくん”からは、ツアーを回りながら現場仕事に行くことで、サーフィンだけじゃ得られない多くの知識や刺激を違った面から受けることができると聞いていて、今後の自分の生き方の参考にさせてもらっています。サーフィンを始めたのは、父親がやっていたので、4才くらいから海に ついて行って、しがみついている板を押してもらって遊んでいました。自分で波に乗れたのはロングボードで5歳くらいの頃、自分から試合などに真剣にでるようになったのは小学校4年の頃からです。湘南だけじゃなく、波のない時は従兄弟の居る千葉の千倉によく行きました。 小さい頃からずっと通っているので第二のホームポイントのようになっていて、今でも良く父と行きます。


でも一時サーフィンが嫌いになった時があります。小学校からサッカーをやっていて、丁度サッカーの方も楽しくなってきた時期に、父から波乗りのことであれこれ言われて少し嫌になりました。でもその時に“のぶくん”が一緒に海に連れて行ってくれて、良いアドバイスをもらって、また楽しめるようになったんです。やっぱり、陸から見ているのと一緒に海に入って同じ目線から見ているのでは、言ってくれるアドバイスが違って説得力が有りました。その事で自分も少しずつスキルアップしてきて、どんどん楽しくなってきました。最近は、波乗りのことで親が言うことに間違いはないと思うようにもなりました(笑)。技術面ではビデオを撮ってくれて、それを見ながら指摘してくれる。父は、仕事から帰って寝るまでの間、撮った映像を自分の何倍も見て研究してくれています。今ではものすごく感謝しています。


プロサーファーになるのが将来の夢です。でもプロになりたいと思う気持ちが強すぎると焦りになって逆に上手くいかない。だから最近、時間は掛かるけど、まずは基礎になる土台を作ってから上を目指そうと思うようになりました。たとえば地方に行ったとき、その土地の環境に溶け込めるように地元の人たちとのコミュニケーションを大切にしています。地元の人が大切にしている海に“入らせてもらっている”とい気持ちを忘れずにポイントには入ります。帰る時にローカルさんから“また来なよ!”って言ってもらえるような人付き合いができれば、自分にとって連絡の場が広がり、上達に繋がって行くんじゃないかと思っています。プロサーファーは試合に勝つのが当たり前だけど、試合に出て勝つだけのサーフィンをしていたら、周りからは良く見られないし世界も狭くなると思う。


今年はNSAとASPをメインに考えています。NSAの全日本の予選が5月にあります。今年の目標は、世界中のトップアマチュアが集まるISAの世界大会に出ること。年間のポイントランキング上位の選手がNSA から選ばれて出場できるのですが、全日本だとポイントも高いし、来月ある全日本級別選手権もポイントが高いからそこでポイントを稼ぎたい。今年は自信有ります!


最近キッズサーファーが増えてきました。スケーターからの転向組も多いです。自分は波のある日は学校に行く前に入っていますが、同じように波の良い日はキッズ達が学校の始まるギリギリまでサーフィンして、そして時間になると脱兎のごとく砂浜を駆け上がって帰って行くんです。湘南にキッズが増えた理由は学校側の体制が変わって部活と同様に考えてくれるようになったからだと思います。試合で良い成績を残すと、みんなの前で発表して表彰してくれるので励みになります。これは地元の諸先輩方が、サーフィンをメジャーなスポーツにしようと地道な努力をしてくださったおかげと感謝しています。

大澤伸幸
1988年 茅ヶ崎生まれ、茅ヶ崎育ち
2010年JPSA グランドチャンピオン
プロサーファー


 

 

■小さい頃から海外の選手に憧れていた
家が海のすぐそばなので小さい頃から海が遊び場でした。父親も全日本で4位になるくらいだったので家族全員がサーファーです。でも教えてくれる訳でもなく、サーフィンやりたければ自分でやれって感じでした。小さい頃から海外の選手に憧れて自分も海外の舞台で活躍できる選手になりたいという夢を描いていました。当時湘南は、キッズが少なかったから他の所の子が雑誌に出てたり、スポンサーがついて海外に行っているのを見ると悔しくて、中学生ながら打倒千葉!と意気込んでいました。中学生にとって海外なんて簡単に行ける所じゃ無いです。でも自分の目標のためには自ら行動しないと何も始まらないわけで、オーストラリアにいくという目的の為に中学の時から16才の終わり頃まで幾つもの仕事を掛け持ちして資金を貯めました。遠回りをしたようだけど、オーストラリアに行けば、その分を全部取り戻せると思いました。そして17歳で渡りました。親も小さい頃から自分の事は自分でやれ、サーフィンやるもやらないも海外へ行くも行かないも自分で決めろという教育方針でした。

オーストラリアが俺の波乗りのスタート
海外は親と何回かハワイへ行つたくらいで、一人でいった事も無いし英語もしゃべれませんでした。初めてオーストラリアに行った時は、ラッシュのつながりで知人のライターと行きましたが、着いて二日目に全く知らない人の所に一人置いていかれました。その家の奥さんは日本人ですが、20年以上向こうに住んでいるオージーみたいな方で、厳しい感じのお母さんでした。最初はやばい所に来たなーなんて思いましたが、今も家族みたいに親しくしてもらっています。その二週間後には何の説明も無く、大型バスに放り込まれて外人だらけのサーフキャンプに行かされました。でも今思えば、そこからが俺の波乗りのスタートだったんだと思います。毎日いろんな体験をして、衝撃的なことばかりでした。人種の違いですかね、オージーは波乗りもガッツリやるけど、陸に上がっても悪ふざけが半端じゃなくてビビリましたよ。オーストラリアには一年間いましたが、帰ったらまたすぐ現場仕事に復帰し、ジュニアのチャンピオンを獲った時も工事現場で働いていました。スポンサーは付いていましたが、毎年3ヶ月はオーストラリアに行きたいと思っていたし、日本ではプロジュニアのツアーも回らなくてはいけなかったので遠征費用が足りませんでした。

■ メイン舞台は世界
今はスポンサーの給料だけで生活できますが、2010年には自分を立て直すひとつの物差しになるかもとJPSAに出てグランドチャンピオンになりました。だからといって何か大きく変わる事は無くて、レッドブルやアディタスなどのグローバルな会社はチャンピオンになって喜んではくれたけど、海外で活躍する選手になってほしいと言われていますから、やはりメインは海外です。スポンサーはJPSA に出ろとは言わないし、自分の好きな様にやれば良いと言ってくれるんです。それがまた俺のモチベーションをあげてくれるんです。 
WQS(World Qualifying Series) のツアーはWCT(World Championship Tour)の選手も参戦していて、WCTのポイントもWQS に入って来ちゃうのでトップシードがほぼCT 選手、だから最初からハードルが高いんです。海外の試合に出て技術の差はさほど感じないけど、試合の流れを読む試合運びの上手さにはかなり差を感じます。海外のツアー選手はみんな10年以上いろいろな所を回って体で波を覚えている、そんな所が差に出るのかな、だからなるべく多く現地に行って自分の体で感じないといけない。あとはバックグラウンドの差がメンタル面を強くしていると思う。例えばブラジルと日本の差は抱えているものが違う。家族を養わなければいけない、奥さんと子供だけじゃなく親戚の生活費まで稼がなくちゃいけない。そんな心構えの選手がいっぱいいるんです。絶対に勝つ、勝たなくちゃいけないんだって、そういう気持ちでやっている奴とスポンサーがついて当たり前の潤っている日本人との差がつくのは当然だと思う。

■若い子に伝えたい事
元々俺の中ではサーフィンだけやっていれば上手くなるとは思っていない、サーフィンとは 関係ないところで出会った人から色々吸収する事がいっぱいある。そういうところで吸収した事が自分を作るし、サーフィンにもプラスになると思う。家庭をもっていて仕事に出る前に海に入る時間を大事にしているサーファーを尊敬します。若い子にはサーフィン以外の事を含めて教えてあげたい。次世代の子が俺の行動を参考にしてくれて、自分の意思と行動力で世界へ飛び出して行く子が沢山出てきたらいいなって思う。サーフィンって自然に一番近いスポーツなのに、昔は不良がやるものという悪いイメージがあった。でも今の子達は不良なんかいないし、お父さんやお母さんの協力を得て夢に向かって一生懸命頑張っている子がいっぱいいる。将来の目標があって、その目標に向かって気持ちを真っ直ぐに出来るかどうか。例えそれぞれ辿る道や方法が違っても軸さえぶれなければ、夢をつかむチャンスはある。今の若い子は親に頼りすぎて自分だけでは動けない子が多い。困難な事があってもすべてが経験として自分の身になるし、夢があるなら自分で動かないと夢も遠くなっちゃう。俺が10代の時に南アフリカに行った時なんて、土地勘は無いし、クレジットカードもお金も無かったけれど、「ケリーが行くから行く」そんな気持ちで行ったんです。みんなにそうしろとは言わないけど、それくらいの気持ちが有っても良いと思う。自分は親に何も言わず勝手にやってきたけど、多分心配していたと思います(笑)。多くの日本のジュニア選手は日本のツアーを回ってお金が出来てからとか、スポンサーからお金をもらってからQS に出る流れになっているけど、海外の選手はジュニアの時からスーパーで働いてお金を作ってQS に出てくる。だからスタート時点の意識がまるで違う。これからの子は早いうちからQSに出て世界で戦って欲しいですね。いま海外の試合に出ている子で技術が上手い子はいっぱいいる、後は気持ちの問題じゃないかな。自ら考えて行動した人間には判断力も付いているから切迫した状況になったときにメンタルが強く壊れにくいと思う。

■活躍できる場を求めて世界へ
最近ヨーロッパの試合にも出ていますが、日本では味わえない歴史が有って綺麗だし、スペインのカナリア諸島なんて波も最高です。
スペインには3回行って、2回勝って来ていますが、技術が向上していても、その土地の波の変化がなかなかつかめない。やはり海外で長くツアーを回っている奴は違いますね。今年、スポンサーにはシックススターやビッグイベントにこだわらず、フォースターだろうとツースターだろうとスターの数にはこだわらず、ポイントを求められているんです。自分が活躍できる場を作ってラウンドアップや内容の濃さが求められている。ステップアップの材料にもなるし、初心に戻る良いチャンスかな。
この先、世界のサーファーに存在を認められるサーファーになりたいし、日本の次世代のサーファーに目指してもらえる存在になりたい。そして、サーフィン以外のいろいろなことを伝えられる先輩サーファーで有りたい。

田原啓江
1974年、東京都墨田区業平育ち
プロサーファー


 

 

■サーフィンへの憧れでスタート
私が中学生の頃に姉が波乗りをしていて、週末になると友達と夜な夜な海に出掛けていました。ちょうど物心がつく年齢の私は、知らないオトナの世界への好奇心の塊だったようで、 将来絶対サーフィンを始めるんだと決めていました。
姉に借りたサーフボードでスープライディングをしている頃から、サーフィンに何かピンとくる物があったんです。絶対プロサーファーになろう、この道で生きて行こうと思いました。都内在住だったので免許を取ってからというもの、せっせと独りで海に通いました。週末にみんなと海に出かけるサーフィンは、思えばホンの入り口でしたね(笑)。サーフィンは全てが自力、沖に出るのも波に乗るのも誰の手助けも無い、海と対峙して見極めて波に乗る、海と自分だけの世界。

日本におけるツアープロの環境の厳しさを痛感
長い現役生活のなかで競技を2〜3年やめたときがありました。当時、世界ツアーもまわっていた自分の技量が世界レベルとかけ離れていることに選手としての存在価値を見出せなくなったんです。日本では優勝経験もあり、雑誌の連載など一見華々しい世界にいるように見えたけれど、内情はそうとも限らなかった。たぶん、今でもほとんどの選手が海外遠征は自己資金から捻出していると思います。私の場合、毎回同じメンバーで遠征に行っていましたが、世界中の良い波に乗って美味しい物を食べて観光して・・・なんてとんでもなかったですね(笑)。セダンの車一台借りて、中華弁当食べて、大会会場の選手ひしめくオンショアのグチャグチャでサーフィンして寝る、そしてまた朝が来て、同じ1日のくり返し。世界の地の果ての1回戦負けや2回戦負けは、精神的にも経済的にも打撃が大きかった。今思えば、そんな不安のなかで競技に専念できる訳もありません。当時、誰もが自分が思い描くプロ生活とのギャップに自問自答の日々だったと思います。だから、これから世界へ出ようとする選手の気持ちも分かるし、その選手達を取り巻く環境を、今後もっともっと改善していかなきゃと痛感しています。

サーフィンとの新たな関係
現役生活は人それぞれのキャパにもよりますが、やはり厳しいところにあります。まさに燃え尽き擦り切れたような私でしたが、コンテストを一旦離れてみると、サーフィンが好きで好きでたまらなかったし、自分を取り巻く全てのものがサーフィンに与えられたものだと気付きました。この楽しさや素晴らしさを多くの人に教えたい!!!そんな気持ちが芽生えて友人プロ3人とサーフキャンプを始めました。キャンプの募集は最初自分達で無料のインターネットサイトを立ち上げ、ブログなどのクチコミで募りました。何回か開催するうちにだんだん参加者が増えてきて、キャンプに来てくれた人達で大会をやろうと計画していた時、たまたま全国の女の子の大会をサーキット化しようという話がもち上がって、その流れに乗れました。一年目はかなり苦戦したし失敗も多かったけど、今は女の子が毎年楽しみにしてくれるようなイベントに成長し、ガールズサーキットとしてのツアー組織もしっかり整ってきました。
試合に出ない3年間で私は大きく成長しました(笑)。選手としての目標設定を、人として、女性としての目標にシフトチェンジした時間でした。ガールズサーキットやキャンプやあれこれやりながら再びコンテストにのぞめるようになったのは、不器用な私の成長の証(笑)。ツアーを周りながらガールズサーキットやキャンプをするのは大変です。特に今年はガールズサーキット5試合をまわり、うち1試合を主催。自分のサーフィンやツアーにもっと集中したいと思う時もありました。でもいまやガールズサーキットが私の大きな原動力になっています。このサーキットがある限り、私も現役でいようと思います。現役のトッププロがオーガナイズすることに意味があって、引退した後ならそれなりに出来ると思うんです。ガールズサーキットのショートボードクラスの優勝者は、JSPA のトライアル出場の権利が貰えます。この権利が貰えるのはこのコンテストだけなんです。ガールズサーキットからプロサーファーが出て同じ立場で戦えるなんて、夢があって素敵じゃないですか、やりがいを感じます。

ガールズサーキットをもっと発展させたい
不思議なことにガールズコンテストをオーガナイズするようになってから、私自身のスポンサーが増えました。以前選手として盛んに世界をまわっていた時は、凄く困ってツアーを引退しようと考えたりしたのに、一度引退した今の方がプロとしての環境が良く、とても支えになっています。そしてその中で多くの人々と出会い、選手として見ることしか出来なかったサーフィンが、多角的に見て取れるように広がりました。サポートしてくれるスポンサーが居る限り、ガールズサーキットが続く限りサーフィンは続けていきたいですね。良い出会いがあってサーフィンを続けてこられて、キャンプもツアーも今は凄く楽しめています。これからどのくらい現役を続けられるか判らないけど、あの日、一旦選手として区切りを付けたそのときから、私のサーフィンライフは人のために役立てたいと思ってきました。そうは言うものの、結果として更に多くのものを与えられ成長させてもらっているのは、私の方ではないかと思います。再びツアーにカンバックして表彰台に上る幸運にも恵まれました。
まだまだ、皆様にお返しすることが多くあるという意味でしょうか?(笑)
プロサーファーとして、使命が多くあることに感謝です。
今となれば、ツアーをまわっていた頃からずっと模索してきたサーフィンというものの答えは、計り知れないほど奥深く素晴らしいもののような気がします。

岡部亜紀
1970年東京都二子玉川生まれ
プロサーファー


 

■波乗りと出会ったのは、高校二年生の春
東京の二子玉川で生まれて埼玉で育って、幼少の頃からバレー、中高と新体操をやっていてマリンスポーツとか波乗りについて何の知識もありませんでした。でも、水が大好きで幼稚園の頃から水泳は教わらなくても泳げたんです。母の実家が千葉だったので子供の頃は九十九里で海水浴を楽しんでいました。
サーフィンを始めたきっかけになったのは、同級生の男の子から譲り受けていたサーフボードを使わないまま部屋のインテリアとして飾っていたんですが、一年くらいして友人が遊びに来た時にサーフボードがあるのを見て、サーフィンに誘ってくれたんです。取りあえず一度見てからと思って何も持たずに海に行ったんですが、次の日曜日には私もサーファーになっていました(笑)。譲ってもらったボードが私には長くて浮力のあるボードだったし、新体操をやっていてバランス感覚が良かったのか、始めたその日に直ぐに立てて『このスポーツは私にあう!!!』と直感しました。それからは毎週、道具を担いで電車で湘南の鵠沼海岸に通いました。しばらくしてボードロッカーがあることを知って余計に行きやすくなりました。一緒に始めた友人は、秋にはみんな止めてしまったけれど、ボードロッカーで知り合った同じ年頃の人達と仲良くなって、一人でもサーフィンを続ける事が出来たんです。

始めた時からプロサーファーになろうと思っていた
高校を卒業して直ぐに4ヶ月バリ島にサーフィン修行に行きました、一旦帰国してからバイトしてお金を作ってオーストラリアにも半年行きました。オーストラリアから帰って来てからもアルバイトで繋ぎながら千葉の海に通い、夷隅に友人と三人で家を借りてからは全日本やアマチュアコンテストに出まくりました。でも学校を卒業した同級生から仕事に関する話など聞くと、自分は今のままで良いのか、大人として社会に貢献すべきではないのか・・・と考えるようになったんです。22歳の時、一年間エステの勉強をして外資系の化粧品メーカーに入りました。何でもそうですが、仕事に就いたらその仕事のプロになるべきで、私は美容の仕事でしたから日焼けなんてあり得ないわけで、会社に勤めてからはサーフィンをやらない時期が6〜7年ありました。でもあるとき友人がサーフィンをすると言うのでついて行って、久しぶりやってみたらブランクが無かったように乗れて、それからまたサーフィンライフが始まってしまいました。趣味で良かったのに、たまたまショップですすめられて出た大会で優勝して、コンペ魂に火がつきました。

美容のプロからプロサーファーへ
美容の仕事も天職だと思っていましたが、今しか出来ないサーフィンを選んで7年勤めた会社を辞め、本格的にサーフィンをするために30歳で千葉に越してきました。それからはあらゆるアマチュアの試合に出て全日本で結果を残し、プロアマに出るようになって3年目でプロになりました。プロになったからってサーフィンすることに変わりはないんですが、海の中ではプロとしてふさわしい行動をするようになりました。プロの活動を数年してきて、プロサーファーとして何か自分らしいことは出来ないかと考えていたときに出会ったのが、今やっている女の子のサーフィン大会BPD ガールズサーキットだったんです。女性サーファーの底辺拡大を目的に、全国を回る子供から大人まで出られるサーキット戦。大会が県外の時はPR用のキャラバンバスで乗り込んだり、選手が主役のタイアップ番組を企画したりと裏方を楽しんでいます。このコンテストが出来て、この一年楽しかったとか言われると嬉しくて励みになります。
今私は両肩を壊してトレーニングも出来ず、注射で痛みを止めています。今まで酷使していた体は怪我も治りにくくなってきているようで、これが限界なのかなって思うんです。でもサーフィンは私のライフだから痛くても体にお伺いをたてながら一日一回は海に入っています。でもこれからは余り無理をせず、肩をしっかり治してサーフィンを楽しみたいです。

 

久我孝男
1964年千葉県一宮生まれ
プロサーファー


波乗りを始めたのは小学4年の時でした。太東にまだ漁港が無い頃で岩場が長く続いていているような場所でしたね。太東って海しか無い半端ないド田舎。今は漁港や堤防ができて素人向きのポイントになったけど、昔は太東やマリブはA級ポイントでパーフェクトウエーブが入っていたんですよ。九十九里ドライブインのタニーサーフショップの大谷さんには大変お世話になりました。小学の頃は友達の板を借りて、夏しかサーフしなかったんですが、中二くらいからタニーに通うようになって、ロングジョンとビーバーテールを合わせて着て冬に入るようになったんですよ。大谷さんがくれたボロボロのシャークスキンのやつを自分で修理して着たんです。


■高校一年の転機

最初に出たのはテッドの試合。ロングボードでケープナインティナインという板が有って、それに乗ったりゴッテスの板に乗ったりして大会に出ていました。
自分の転機は高校1年の時でしたね、中2の時は同級生の仲間の中で一番下手だったんですよ。海に一番近いのが俺なのに下手なのが凄く悔しくて・・・、学校をさぼって練習しました(笑)。それからはだんだん上達してきて中学3年の時に全日本のボーイズで優勝。次の年に千葉の支部予選のボーイズで優勝。その時にCHPの中村さんが家に来ないかって誘ってくれたんです。中学生でお金がないから新しいボードも買えないじゃないですか、誘われて早速CHPにすっ飛んで行きました。それからは自転車でCHPに通ってサーフィン。次の年、高校生になってボーイズからジュニアクラスに代わったら支部予選落ちしちゃって、でも静岡の静波でやる大会に補欠で出られると聞いて連れてってもらったんです。そしたら補欠で出たのに優勝しちゃった。それが転機でしたね、プロになりたいと思った。

プロへの道
中学2年の頃に太東にスケートボードセンターが出来てサーフィンと平行してスケボーもやっていました。それが結構サーフィンの上達に繋がった気がします。CHPの中村さんの所でライダーをしていた頃、CHPでもスケートボードを扱っていて、渋谷のスケートボードパークや平和島のパークまで練習に行っていました。スケボーのプロ大会は、最終戦までいったんですが、上手い子が凄いエアーをきめていた。これは自分とは違うなって、自分はこれ以上出来そうにないなって感じるようになった。トップクラスにはいたけど、サーフィンの方にに将来性があると思うようになった。スケボーやるかサーフィンやるか悩んで中村さんに相談したら、自分で決めなさいと言われた。それでスケボーを止めてサーフィンに絞ったらジュニアで優勝できたんですよ。高校2年の頃にはプロアマの試合がたくさん有って、その試合でプロに混じって3位を3回取れ、プロの善家さんも破って、その時にこれはもうプロになるしかないだろって思った。高校3年の時に知り合ったオーストラリアのライバルが、家にホームスティに来ないかと誘ってくれて、英語は全くダメだったけど、学校をやめて単身サーフィン修行に行ったんです。でもそのうちお金もなくなり、その人のお父さんの家具屋を手伝ったりして3ヶ月ほどいました。オーストラリアはレベルが高いし、道具も進化していてシングルフィンからトライフィンに変わり、テクニックも切り替わった時期でしたね。

プロとして世界で闘う日々
一回目のプロトライアルでトップ通過して、次の年プロとしてデビュー。丸井の大会の第1戦で優勝しちゃったんですよ。丸井だけで4戦あって4戦のトータルポイントで丸井の世界選手権に出られる良い時代でした。日本のツアーを回って負ける気がしなかった。ヨーロッパやアメリカに行って世界のトップと戦っていたから日本に戻って負けるはずがないって。その頃、トレーニングなんてやっている人もいない時代に自分はトレーニングの機械を借りて毎日プロテインとバナナ食べて、山を登ったり下りたり。サーフィンの呼吸練習もある人から教わってプログラム作って毎日やっていた。大磯でショップをやっている人がトレーナーの免許も持っていてプロサーファーならトレーニングを取り入れた方が良いと教えてくれた。昔、角川からサーフィンの本を出したんですよ、その時東大の研究室の人に水中での体力測定をやってもらったら、自分はボクサーと同じレベルだと言われた。トレーニングでしっかり体力が付いていたんです。19才でチャンピオンになって20才のときの2位、21才から4年連続で勝って楽しくてしょうがない、暗いうちから入っていましたね。でも勝てない時が有ってサーフィンが嫌になった。波回りが悪いとかもあるけど、サーフボードが薄くなってきて自分には合ってなかったんですね、それを替えてればもっと勝っていたかもしれない。エディに出たのは27歳の時、招待されてから4年近くもサイズが小さくてウエイティングでした。1回戦は4位、やばい優勝しちゃうかもと思った。つぎのラウンドでリップから真っ逆さま、ライフガードが上がるかって聞いてきたけど、あと3本やってくるって言った。結局14位でした。

■ボード選びでサーフィンが変わる
世界を回っているときの話なんだけど、リップカールチームにデレクハインドって言うコーチがいるんだ。調子の悪い俺のサーフィンを観ていた時、一緒に回っていた関野タケシに板借りたんですよ、そうしたらもうバシバシで見ていたデレクが、お前この板の方が合うじゃないかって。でもスポンサーがボードメーカーだと他のには乗れない、自分に合う板に乗れないんです。だったら自分で板を選んだ方が良いと思って34才くらいまで選手を続けて30過ぎで8年ぶりに優勝した。その時がたまたまワイドで分厚い板だったので、自分にはそういう板が合っているんだって思いましたね。サーフィンがまた楽しくなったんです。自分に合う板との出会いでサーフィンが変わる、自分が味わった事を世間に伝えたいと思い、ホワイトエンジェルと言うブランドを立ち上げたんです。カムバックサーファーも昔はそういう短くて厚めの板で楽しく波乗りしていたと思うんですよ、その楽しさをもう一度味わって欲しいというコンセプトで板を作っているんですよ。倉庫にしまっておいた板を持って海に来て、もう一度サーフィンしたいと思ってもパドル力が落ちて胸くらいまで沈んでいる。俺も波乗りしすぎて頸椎ヘルニアをやって腕の力が落ち、細い板ではパドルがついて行かない。それが新しい自分の板だと軽くシュッて乗れちゃう、乗れば足が勝手に動く。そういうことで困っている人は沢山いると思う。まるで介護用の板みたいなので名前がホワイトエンジェル(白い天使)なんですよ。

次世代の育成
最近若い子が少しは出てきているけど日本はまだ競争率が低いね、若い子が多ければ多いでウザイけど(笑)。オーストラリアでは、ウザイのがいっぱいいるんですよ。バーレイとかは夕方5時くらいになると学校終りの子供をお母さんが車で連れてくるんですよ、そうすると40〜50人の子供だらけになっちゃう。それに比べると日本は全然いない。だからレベルが上がらないしブラジルにまかされちゃう。昔世界戦に出た時、選手の名前の横に(ブラジル)なんて書いてあるとブラジリアンだラッキーって、絶対負ける気がしなかったけど今じゃバンバンやられている。日本は楽しむスポーツが多すぎて色々な種目に分散しちゃうからサーフィンのうまい子が出てこない。向こうはスポーツの中でサーフィンの比重が大きい、だから100人の中からの一人の上手い子を選べる。日本ももっとサーフィンが活発になれば、そういう子が出てくると思う。まだまだ先ですけどね。ハワイの波もタヒチの波も乗らなきゃいけない、筋力の無い小さな体じゃ乗りきれない、スピードでかうわけがない。子供の体を作るのに親の代から食べ物を変えていかないといけない。この間展示会にいったんですが、二年前と比べて活気が戻ってきている。右肩上がりになってきていますよ。

砂川治久
1963年東京浅草生まれ49才
ボンドサーフ経営


夢中で乗っていた10代
17才から波乗りを始めて一年くらい通いで千葉に行きました、18才の時に太東の吉田正さんの門を叩いて弟子入りをお願いしました。吉田さんは丁度サーフボードメーカーを立ち上げる時だったので、忙しいから手伝えと言ってくれました。毎日サーフィンをして二年半くらいお世話になりました。アマチュアの大会で勝てるようになりオニールがスポンサーになってくれて一度東京に戻ったんですよ。ベースは太東だったから、アパートを借りて毎日くらいの勢いで行ったり来たりの生活でした。


サポートを受けてプロに
アマチュアの成績が良かった時期にオニールの得意先の丸井さんがサポートしてくれるようになって、それでプロになる決心をしました。初めて丸井さんからハワイのチケットと宿泊費を出してもらった時は嬉しかった。そして世界大会を日本に引っ張ってきたときの選手の面倒を見る役を仰せつかりました。その時代に丸井池袋がサーフィンの道具を世界で一売ったと聞いています。その丸井のスポーツ館が客で賑わいアドバイザースタッフとして週に3回くらい販売のコーチングを頼まれて行っていました。サーフボードも作っていたしサーフィンの業界にも顔が効いたので、スタッフ教育と言う名目で僕をサポートしてくれたんですよ。その後もしっかりサポートをしてもらい、カリフォルニアで開催されるケティン カリフォルニアチャレンジと言う世界クラスが参加する大会に出場しました。その時は ティームチャレンジ・オニールチームで出場したんですが、二回目は丸井チームで出ました。これは丸井と取引しているメーカーの選手たちが集まってチームチャレンジしたんです。そのときのチームで覚えているのは、ビクトリーの先輩達、きよじさん、ゴッデスの池田ミツタカさんと僕で戦いに行った事が有ります。それからズーッと丸井さんとオニールさんにお世話になり、日本に帰ってきてプロクラストライアルでプロになりました。

カリフォルニアの波が好き
あの頃カリフォルニアに行っている日本人なんていなかったけど、僕はずっとオニールだったんでその年をきっかけに毎年3ヶ月くらいアフターハワイは必ずカリフォルニアでスタイルとかライフとかを吸収しました。英語がまるでだめだから体当たりでしたよ。地元の人に英語も解らないで良く来たねって英語で言われて(笑)、ハンティントンビーチに日本人はお前しかいないなんて言われたけど、その頃ハンティントンにはザ・サーフの鬼頭さんがいました。サンタクルーズでお会いした時、日本人に会ったのは初めてだと言われましたよ。ハンティントンはあまり良い波じゃなくダンパー、だから上手くなるのかな?みんなスピーディー。波が良いのは冬場、北の方でリンコンがパーフェクト、波が良いからハワイより好きでしたね。ハワイのノースのような大きな波はあまり好きじゃなかった、あまりに大きすぎて自分のサーフスタイルに合ってない、ジャンルが違う感じ。僕のサーフィンはマニューバとアクションとスタイル、この三つが重要だと思っている。デカイ波に乗っている人はそれがスタイルだと思っている。昔は一番デカイ波に乗らなければサーファーじゃない、みたいな変な考え方が日本に有ったんですが、合う人と合わない人がいる。サーフィンで一番重要な事はカッコイイ事。だからデカイ波に乗っている人はカッコいいと思っているでしょう、僕もカッコイイと思いますよ。でも自分には出来ないから、同じ色の花じゃなく違うカッコ良さを追いました。

サーフィンビジネスに転換
早い時期にカリフォルニアでいろいろなスタイルを吸収して、日本ではある程度通用したけれど、だんだん試合で勝てなくなり、回りもどんどん上手くなって自分が伸びなくなり26才くらいになった時に限界を感じた。僕は17才からサーフィンを始めているけど、カリフォルニアでは7才とか小さい頃からサーフィンを始めている。父親がサーファーでおじいちゃんもサーファー、サーファー一族。僕なんてサーフィンしたくて千葉に移り住む時、母親から勘当されましたよ。そうやってサーフィンに打ち込んできた環境と、小さいときから家族ぐるみでサーフィンに親しみ家族や親戚が応援してくれる環境の違いは有りますね。プロを引退して自分のお店とオリジナルブランドのウエットスーツを展開するようになったのは、ちょうどバブルの最後のときだったのでうまくいきました。その時はサーフィンをあまりやらず商売ばかりやっていました。サーフィンビジネスをもう一つ立ち上げようとしていたので、サーフィンはできなかったです。昔はオリジナルって言うと安物のイメージが有ったけれど続ければ本物のブランドになる。プロの選手を何人か抱えたり全国の友達が着てくれたりと26〜27年間ズーっとやっています。

海は様々なものを与えてくれる
元々本家が浅草でしたから東京ベースでサーフィンをしていましたが、10年くらい前に娘も千葉でサーフィンをしたいと言ってくれたので移ってきました。 サーフィンは面白いし僕が続けて行けば僕の子供たちや孫につながるかなって思って今まで続けてきた。僕には二人の子供がいて一人はサーファーで僕以上にサーフィンしているかな。サーフィンのためにアルバイトして海外留学をしながらサーフィンをしている。僕と同じで毎年冬場は3ヶ月海外に行って波乗りして一度帰って来るのですが又バリに出る、海外に出て波乗りを通して世界を観たいのでしょう。昔と違って今は手の届くところに世界が有るから幸せですよ。あのころ僕たちはサーフィンに飢えていたんだと思う、そんな僕の背中を見ていて良いと思ってくれたのか、娘が自分と同じ事をしている。娘はなんて言うか分からないですが、親としてはうれしいですよ。それはサーフィンをしない長女にも同じマインドをかんじる時があり幸せですよ。
サーフィンは海をズーッと見続けないと良い波に乗れないんですよ。サーフィンは環境がそろっている所でやるスポーツと違って整備されていないし、自然を相手にしてやるスポーツ。とにかく海に来てみたら波の状況が良くなくても必ず自分が納得できる波が一本は来ますよ。長く波乗りやっているけど一本も乗れなかった事は無かった。海に入ったら必ずお土産くれます。海に入るといつも癒される、悩んだら波乗りをお勧めしますよ。

牛越峰統
1971年10月東京都調布市生まれ
JPSA一般社団法人 日本プロサーフィン連盟理事長、U4SURF オーナー


兄がサーフィンを始めたころはちょうど、日本にサーフィンブームが押し寄せてきたときでした。
僕が住んでいたのは海のない東京でしたが、兄の買ってきたサーフィン雑誌を見て、かっこいいなーって思ったのがサーフィンを始めたきっかけですね。中学一年の夏からサーフィンを始めたのですが、初めて実物のサーフボードを見たときに惚れちゃいました。きれいとか最新とか関係なく、どういう物かも分からないのに惚れてしまった。当時ファインやサーフィン雑誌のSC とかで電車サーファーが取り上げられ始めた頃で、自分も兄貴や友人のボードを持って調布の街を歩いたりしましたよ(笑)。
中学の同級生三人と小田急線に乗って初めて行ったのが鵠沼、三列四列とサーファーが沢山いましたよ。小学校では野球をやっていたし、中学ではサッカーをやっていました。男としてメインのスポーツはやっていたから体力はできていたはずで、それに小学校4年の時からスケートボードもやっていたからサーフィンの基礎はできていたと思うんです。1本目から乗れて、そのときはスープライディングでしたけど真っ直ぐ乗れた時はもうこれだと、サーフィンでやっていこうって一本目から思ったんですから、笑っちゃいますよね。他のスポーツとはまるで違う、たとえようがなかったですね。サーフィンを始めた頃は、前日の最終電車で海に行って海岸にテントを張り、朝の4時からずーと入って、お腹がすくと鵠沼プールガーデンで焼きそばやお好み焼きを食べて、またサーフィンという感じでしたね。


中学三年のときに初めて大会に出ました。地区の大会に出て少しずつチョロチョロ勝てるようになってきて、高校一年の時に全日本ジュニアで三位入賞。それが僕にとって一番大きなアマチュアの成績です。サーフィンを始めて四年でプロをめざし、16才からプロテストを受けたんですが撃沈。その辺りからハワイへ修行に行ったりオーストラリアの試合に出たり、WPSがない時代に先輩に連れて行ってもらった。ぺルズビーチで世界のサーファーにもまれ日本に帰ってきて茨城でプロテストを受けました。そこで合格するまで四年ちょっとかな。その頃から全国のレベルの高いサーファーとコミニュケーションがとれるようになりました。近くにライバルや同級生は何人かいたんですが、各地で(NSA)全日本レベルに出会って刺激になりました。遊んでいられないぞ!みたいな気持ちになりましたね。海に行かない時も常にサーフィンに関わることを何かしていました。

日本プロサーフィン協会の理事長をやっていますが、別に立候補した訳じゃないんです、前理事長の腰添氏から「お前なら出来る」とお話を頂いて、失敗しても良いくらいの気持ちで受けました。何百人ものプロサーファーの上に立っている訳ですから本当は失敗が許されないです。みんなの力と今年30周年を迎えるJPSAが築いてきた歴史があったからやれたんですけどね。

海外の大会で日本のプロが勝てないと言われますが、たしかに日本のレベルは10年遅れている。以前理事長だった添田博道氏が日本のJPSAの試合に世界の試合をミックスさせた実績が有ります。その試合では日本のJPSAのポイントと世界の2〜4スターイベントのポイントがもらえる仕組みでしたので、選手たちが日本と海外の試合に積極的に出られるようになったんです。協会設立から30年、日本のプロが世界で活躍する、それを目標にやっているんです。JPSAのレベルが低いかどうかは関係なく、世界レベルのプロを作ることを指針に運営していることは事実なんです。JPSA のプロが世界に出て勝つ、それはかなりの覚悟と鍛錬が必要で、キッズからプロまでそのくらいの意識を持っていないとレベルがあがらない。

今の日本には世界レベルの試合が少ないですから、かつて丸井さんやマツモトキヨシさんがスポンサーだった頃のように、外資系のウエアーメーカーとかに協力してもらって世界ツアーを日本でやってもらえれば、この不況で日本でしか試合できないプロサーファーにもチャンンスが生まれるのですが。JPSAとしてはツアーも一戦増えて特別賞もつけられるようになったり、試合の中で選手に還元できたりしているんですよ。そういう面ではこの一年は良くなっていますね。全国(千葉)にも優秀なキッズが出てきています。先輩方やメーカーの方や最近サーフィンにはまっている人たちに、その子たちの名前をどうしたら覚えてもらえるのか、日本全体で応援できる仕組みを作るようにしていかないといけないんです。
サーファーって昔はコアな人種だったけど、今は力強いピープルです。バリで事故があって観光客が行かなくなったとき、サーファーだけは変わらずに出かけてくれたと、GarudaIndonesia航空会社やトラベルシーン旅行会社の人たちにとても感謝されて、なんでもお手伝いしますと言ってもらえました。そんな事が有ってJPSAの試合もこの不況の中、バリで13年続いています。

僕にとってサーフィンは自分のスタイルをむき出しにできるところが一番良いですね、とにかく夢中になれる。自分を一番生かせる所だとも思う、だから続けているんでしょうね。プロをやめてももちろんサーフィンを続けていて、サーフィンは試合だけじゃないんだって言う事が引退してから解るようになりました。海に洗われて悪いものを出している、サーフィンで自分がクリーニングされて再生されているんです。どんなに悩んでいても海に入った後の気持ちは凄く違う。

今、40代や50代がサーフィンで盛り上がっているけど、10代20代の若い子たちのスポーツ離れが気になります。サーフィンは若くなくちゃ出来ないスポーツだったのに、若い子がサーフィンしないのが残念です。プロサーファーがカッコいいと若い子たちが感じる環境作りをしないといけないと感じています。
サーフィンは昔より組織がきちんとしてきた。今後しっかりとしたビジネスラインができれば、キッズたちも含め世界に通用するナショナルチームを作って世界に送り出して行けるんです。JPSAの試合に日本の大きな企業が冠スポンサーについてくれないかぎり大きくはならない、そのためにも今年は連盟も震災復興を目的にチャリテーをやっています。バリの試合を終えてグランドチャンピオンが決まったら、日本の大企業に冠スポンサーについてくれるように営業しようと思っています。
サーフィンは自分の人生の中で一番信頼できる、やりがいのあるスポーツです。

添田博道 
神奈川県大磯町出身 53歳 SOEDA SURFBORDS JAPAN代表 プロサーファー


■サーフィンデビュー

俺が波乗りを始めたのは小学校6年、サーフィンを初めて見たときカッコいいなって思いました。大磯の海岸で知り合いの人にロングボード押してもらったらすぐに立てましたね。中学1年の時、少し短くなったボードに乗っている人を見て、簡単に見えたけど自分で乗ったらパーリングした。ハマったのはその中学1年の4月、ウエットを持ってなくて凍えそうになっても波乗りした、その頃は波乗りがただただ面白かった。自転車で動ける茅ヶ崎の西浜くらいまで行って波乗りしましたよ。最初にカッコいいなと思って波乗りをはじめて以来、サーフィン以外に面白いものに出会わなかった。学校のとき他のスポーツを見ても何やっているのかなって感じでした、サーフィン以上のものが無かった。 中学2から試合に出るようになったけど、最初の頃は負けてばかりで勝ちたい!と思う気持ちがいつもありました。BクラスとかCクラスとか女の人と一緒の試合があって2番とか3番とかで、なかなか優勝できない。だから3年のときはガンガン試合に行って、高校1年の頃には問題なく勝てるようになりましたね。それで波乗りにますますハマっていきました。俺たちの年齢ではノリヒコのデビューが一番早かった。中学2年の時にノリヒコが少年サンデーに出ていて、イイナー!こうなりたいなーって憧れていたもの。 俺がやっとデビューした頃、ノリヒコは全日本の少年の部チャンピオンだった。対抗できるようになって来たのは高校一、二年の時くらいからかな。それまではノリヒコの方が全然上で足元にも及ばなかった。


■日本のサーフィンを盛り上げたい。

いまプロサーフィンが盛り上がらないのは何故なんだろう。今人気のプロゴルファー石川遼は普通と全然違う上のクラスのメジャー大会で戦っているじゃないですか。それはサーフィンで言うとワールドチャンピオンシップツアー、その辺りで活躍する日本の選手が出てくれば日本のサーフィンも盛り上がるんでしょうね。スターがいないなら創らないとないとダメだと思う。俺の時代には糟谷修自とか中村の大ちゃんとかスターがいた。JPSAをやめたからよくわからないけれど、俺だったらスターを作る。海外ではなく国内に憧れのスター選手を作らないと昔のように盛り上がらないと思う。単純に考えれば良いのに組織がだから上手くいかないのかな、大野修聖のようにずば抜けた可能性のあるサーファーがいるけど………。日本のサーフィンも高度成長期くらいまでは憧れるスター選手がいて熱かったけど、15年前にその成長が止まってしまった。
日本のプロサーファーのレベルは上がっているけど、世界のレベルはそれ以上に上がっている。波にはそこそこ乗れているの上位に行けない。日本はすべてに優しい。日本人プロサーファーは世界に比べて試合をして勝ち上がっていくガムシャラ感が欠けている。ハングリーな気持ちが薄い。ブラジルなんか勝てないとすぐクビになっちゃう、チャンスを何回もくれない。世界はある意味もっと乱暴だよね、勝つために乱暴。何が何でも勝たなきゃダメ、負けたらおしまい、みたいなハングリーさが無いと勝てないよね。僕の周りにも何人か若い子がいて最近仕込み中だけど、マー君を筆頭に頑張ってどう出てくるか。そういう連中が10人20人と日本にいてほしいよね。日本の大会も海外の大会のようにすごくデカイ波の大会をやっちゃえば良いんだよ。日本にもシークレットで15フィートとか20フィートとかの波があるんだから、そういう所で大会をやれば乗れる乗れないがハッキリするじゃないですか、何か今までと違う事やんないと注目されない。5フィート6フィートなんかある程度サーフィンしている人なら誰でも乗れちゃう。そういうんじゃなく、皆が驚いてヘーッ!て言うような大会を日本でやったらもっと人が集まってくると思う。そういう事を伝える手段としてインターネットもある、そしたらテレビだって付くかもしれない。そういう大きい波をハワイで練習している日本人は何人もいるからね。そういう連中がもったいないじゃないですか。危険と隣り合わせだから難しいと思うけど、そういう連中が参加するビックウエーブの大会を作っていったら良いと思う。

■ジャワ島に家を造った

来月からパチタン島に行くんですよ、アメリカのサーファーマガジンにもバンバン出ている場所で波がすごく良い。そこに俺の家を建てているんです。300坪の土地で電気も井戸もあってインターネットも使える。日本人はいないけどオーストライア人が住んでいる。漁師が近くに居て魚は買えるし、野菜や果物も近くにある。冷蔵庫やテレビもあるし電気が止まっても発電機があるから大丈夫。家の前にサーフポイントが二カ所あって、大きいのがドカーンと…すごく速いんですよ。ファンじゃなくドーンとくる大きくてハードな波。誰かに言われたな、なんであんなハードな所にその歳になって家を造るのかって…。年々歳を取っていくじゃないですか、若ければ良いけど、俺には結構ヤバイ、失敗しちゃったかなって…ハハハ。3月から12月終わりくらいまでがシーズンだから来年の3月から向こうにしばらく行っている、向こうには信用できるバリニーズのプロサーファーがいて、その子が現地の事は何でもやってくれる。向こうの土地は俺の名前では買えないから、名義はバリのそのサーファー。
財産として買ったわけじゃないから、俺が生きているうちに使えれば良いと思っている。日本人のサーファー誰が行ってもいい、皆に使ってもらう。そこに若いサーファーを連れて行って世界で通じるサーファーにできたら最高ですね。

稲葉康宗 
千葉県船橋市1965年生まれdeep surf オーナー、プロサーファー


■中学1年のときに初めてのサーフィン。

小学5年のときからスケートボードをやって遊んでいました。ある時、近所のお兄さんの所にサーフショップをやっているという人が遊びに来ていて、たまたま僕のスケートボードを見て「こんどサーフィンをやってみないか」と声をかけてくれたんです。上から下まで全部借りて千葉の海に連れて行ってもらい、初めてサーフィンをしました。
多分その人が声を掛けてくれなかったら今サーフィンをしていなかったかもしれませんね。その時は千葉の飯岡という所に連れてってもらったのですが、その頃の飯岡はサーファーも殆どいなくてローカルの人と自分を連れて行ってくれた人と、ほんの数人しかいなかったのを覚えています。今と違って道も良くない時代でしたから2時間半くらいかかりました。
そのとき借りた板は、シングルフィンの2メートルくらいのボードでした。一回目から立てて海の上を滑っている感じがスケートボードとは違う気持ち良さ。そのときから病み付きになり、それからはお願いして毎週一緒に海に連れて行ってもらいました。どうしても自分の板が欲しいと思うようになり見つけたのが川井幹夫さんの板で210センチくらいの中古のシングルフィン、スティンガースワローの今で言う所のガンでした。
毎週海に連れて行ってもらってサーフィンしていろんな人と知り合った。中学2年生位から大会に出るようになりました。丁度その頃全日本にボーイズクラスが出来て、一回目に久我孝男が優勝。次の年には僕も千葉予選で勝って全日本に出たんですが、そこでコテンパンにやられ、凄く上手い人がいっぱいいるんだなーとわかると、ますますサーフィンにのめり込みましたね。
中学三年のときに支部予選をトップで通って、伊豆白浜の全日本では6位に入りました。その時千葉が6位と5位、1位から4位まで伊豆のサーファーでした。少しずつ上手くなったのが実感できてきたんですが、その後18歳くらいまで遊んでしまってあまり真剣に波乗りしなかった。気がついたらライバルはどんどん上手くなってプロになったり外に出て行ったりしていて焦りました(笑)。それまではプロを目指すという意識があまりなかったのですが、改めて真剣にサーフィンを始めて試合に出るようになったんです。


■25歳でプロになる

プロになったのは結婚した25歳の時でした。それまでプロクラスを3回受けたんですが、いつもぎりぎりで落ちていました。結婚をしたし、今度落ちたら普通の仕事をして趣味でサーフィンすればいいやって思って、最後の挑戦のつもりで行ったら受かっちゃった。それからプロの生活を30歳まで5年間しました。海に遠い環境でしたが、週一サーファーでもプロになれるんだというところを見せたくて、がむしゃらにやりましたよ。でも全然勝てなかったです。


■ 日本のサーフィンを元気に

日本のサーフィンを元気にするには
ケリー・スレーターのようなスターが日本人から出てきたら新しいサーフィンブームが興るかもしれませんね。うちの息子のレオもJPSAで最年少プロになったんですが、ケリーのレベルには無理でしょうが、何とか世界のレベルに追いつけるよう頑張っています。レオが生まれる時に初めて海に浸けるならハワイのパイプラインと決めていたんです。1歳の時にノースに連れて行ってパイプラインの海に無理矢理浸けちゃったんですよ。インサイドでしたが大失敗でした。怖かったのか、それから5歳まで砂浜では遊ぶのに海に入らなかった。
一宮にレオの同級生で大原ひろとって言う子がいるんですが、その子がサーフィンを始めたおかげでレオも6歳くらいから遊びながら波乗りするようになりました。子供同士ライバル心が出てきてどんどん上手くなった。ほとんど毎日朝夕と海に入っていましたよ。目標だった日本最年少プロを達成できたんで父親としてはとてもうれしいですね。今は見守りながら手伝えることはやってあげようと思っています。
レオは今ハワイのシェイパー、ウエイド・トコロの家にホームステイして英語とサーフィンの勉強をしています。日本人サーファーとしては良い環境でサーフィンしているんじゃないかな。その割には全然結果が出てないけど(笑)、世界を目指して頑張ってほしいね。うちの子供じゃなくても若い世代の子供たちがどんどん世界に出て、日本のサーフィンを盛り上げてくれたら良いですね。その応援は僕たち世代がやらなくちゃいけない。


■東日本大震災

地震の後は5日間海に入らないでいましたが、何時までも自粛していたら皆が沈んでしまう。元気のある自分たちが頑張っていかないと被災地の救済もできなくなる。被災地の友人やボランティアで東北に行ってきた人からも「元気があるところはガンガンサーフィンして盛り上げてくれ」と逆にケツを叩かれました。今は自分たちが出来る事をひとつひとつやっていくしか有りません。
東日本大震災にて亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災された皆様とそのご家族の方に心よりのお見舞いを申し上げます。 稲葉康宗

江澤和幸 
1966年勝浦部原生まれ 45歳



初めて波乗りをしたのは中学の時、サーフィンしていた兄貴のボードを持ち出して乗ったのが最初です(笑)。そのときに傷を付けたのに黙っていて後で見つかってひどく怒られました。波乗りを本格的にはじめたのは高校に入ってからですね、中古のボードを手に入れてほとんど毎日サーフィンしていました。大会で少しずつ良い成績を残せるようになって、ますますハマリましたね。高校三年の時は全日本ジュニアで二位、シード選手になりました。


■高校卒業、漁師になるかプロになるか。

卒業を前に漁師になるかプロになるか真剣に悩みました 。実家が漁師だったので親に相談したんですが、その頃の漁師はあまり商売にならなくて船を持つにもお金がかかるので反対されました。かといってプロサーファーも今のようにスポンサーが沢山いるわけではなく、食べるのもやっとの様な時代でした。先輩のサーファーに相談したら、プロになるなら湘南に行けばと言われたけれど、波の少ない湘南に行くより波のある千葉で波乗りしたかった。結局漁師もプロもあきらめて普通 の会社に勤めました。それまで沢山の試合に出て雑誌にも取りあげられ、騒がれた時もあったのに急に姿を見せなくなったので、みんな僕がサーフィンをやめたと思っていたみたい。会社を休んでまで試合に行けなくなっただけで、サーフィンはずーっと続けていました。同年代の知り合いがプロになって行くのを見てはミスったかなと自問自答しながら続けていました。プロに行っていたらこんなに長くサーフィンを続けていなかったかもしれない。アマチュアで良かったんじゃないかって最近思うようになりましたね。今、プロを目指している2〜3人にライダーで乗ってもらっていますが、試合でたまたまポイントを取ってプロになってもその後が大変。それよりアマチュアでしっかり良い成績を残し、選手権で優勝してトライアル受けてプロに行った方が良いと話している。


■勝浦部原

以前WCTの大会開催をここに呼んだのも、大きい大会が毎年開催されれば世界を代表するトップ選手のサーフィンを間近に見られて、それを見て自分もやりたいと思うサーファーが増えることが目的でした。でも今は地元のサーファーが少なくなった代わりに他から移り住んだサーファーや週末だけアパートを借りて部原正面に入るサーファーが増えましたね。当然混んでくるからルール守れないやつがいると口論になる。部原は「ルールを守れないやつは二度と入れない」という雰囲気があるんですよ、それが強調されて部原イコール怖いみたいに思われていました。高校生の頃なら混んでいる目立つところでわざわざやりましたけれど、波乗りから少し離れてからは混んでいるところは避けるようになりましたね。松部、マリブ、おばちゃん下、シンガが好きですね。自分が高校卒業のときに就職で都内に行く人とこっちに残る人と別れたんですけれど、僕には都内に行くって考えは全くなかったですね。サーフィンをやりたい一心でした。千葉の海が好きだから試合で湘南に行く以外は松部と部原でほとんど勝浦から出ていないですね。この場所、この海、この波が好きなんですよ、自分の生まれたこの勝浦が。会社に勤めて7年たった25歳の時、知り合いが独立して太東でサーフショップを開いた。ボードでも買おうかって出かけてったら、買わなくていいから乗ってくれないかって言われて25歳でライダーになりました。このときからまたサーフィンにハマリました。自分の第二次ブームですね。それまでは普通にある板に乗ってフリーでやっていただけですから気持ちが全然違う。会社も勝浦市内に替えて仕事しながらライダーを続けましたよ。ショップの名前も売りたい、サーフボードブランドも世に知らせて力になりたいと積極的に大会に出るようになり名前が残せるようになりました。


■若い子達を育てたい

最近、海に入って感じるのは次世代の若い子達は波乗りしているけれど、自分世代とその子たちの間がいないんですよ。年齢の高いサーファーは波の良いときは入っているけど、悪いときは全く居なくなる。そんな浜を見るとサーフィン人口が減って縮小していくのかなーと心配になりますよ。自分たちがサーフィンに夢中になっていた頃、他に楽しいものが無かったせいもあって一冊の本をぼろぼろになるまで見ては、あの板が良いとかあのマークがかっこいいとか集まって夢中になっていた。今は楽しい遊びが他に沢山あってサーフィンに入ってこないのかな。でも体験したら絶対に夢中になると思うんですけどね。残念ながら部原は遠浅じゃなくてサーフィンを教えるには不向きなところ。湘南なら波が小さくても押してもらって遊べるけど、ここはうねりが入らないと波が立たないし足がつかないのが普通だからスクールには向かない。でもこの商売をやっているからにはサーフィンを頑張っている若い子達のために良いものを提供してあげたい、売りっぱなしではなく一緒に海に入り自分たちが得た知識を少しでも伝えたいって思うようになりましたね。波が悪くても海に入った後にシャワーを浴びたときのスッキリ感。気持ちいい!サーファーじゃないとわからないね。こんなに長く続けられるスポーツってそうないですよ、年々体はつらくなっていくけれどやめられない。サーフィン中毒ですね。

細井 隆 
1961年4月、神奈川県小田原市生まれ茅ヶ崎市在住
元プロサーファー、HosoiiSurf&Sportsオーナー
■初めてのサーフィンは小学校4年

茅ヶ崎の実家の近所によく遊んでくれる中学生のお兄さんがいて、僕が小学4年の時に海に連れて行ってくれて、黄色いサーフボードに乗せてくれた。その時の僕の身長では腰から胸、今なら膝くらいの波にお兄さんが押してくれて一本目から立て、ずーっと岸まで乗って行けたんです。それが僕の最初のサーフィン、すごいなー楽しいなーって思いましたよ。それからはもうサーフィンがやりたくてやりたくて(笑)クリスマスにサーフボードが欲しいって父に話して、当時中海岸に有ったゴッデスに行った。丁度良いのがあるよって出してくれたのが2万円のサーフボード。でも「そんな高いものとんでもない」って言われて買ってもらえなかった。(笑)中学一年の時に初めて自分のサーフボードを買ったんですよ。ドジ井坂さんのお店でHAWAIIって書いてある中古のボード、嬉しかったですね。近くにコスミックやゴッデスがあって、当時はカボチャポイントが全盛の頃でそこに行くと沢山のサーファーがいた。僕なんか怖くてその人たちと口なんか聞けないし、遠くから眺めて見て覚え、ちょっと離れたところでそれを練習した。そういう意味では近くにお手本があってすごく恵まれていましたね。


■中学2年、ビビリながら出た初めての大会

生まれて初めて試合に出たのはその次の年の中学2年の時。青田さん、ヒロミチさん、小林さん、モスケさんとかが出た酒匂川の大会でした。B クラスに出たんですが波が大きくて沖に出るのが大変でした。体力が有ったので何とか沖に出られ、その大会でいきなり3番、これではまりました。それからは行ける大会にはどんどん出ました、高校2年から大学に入る間はほぼ勝たしてもらったので、その頃のトロフィーが沢山あります。日体大にサーフィン同好会があって全日本学生選手権に出て優勝しました。その大会の上位2名までが全日本選手権への出場権があり、参加したら3番になってその後プロになりました。


■大学1年、オーストラリアでサーフィン文化の違いを知る

プロになって成績をおさめる前22才の時に1年弱オーストラリアのキラと言う所にサーフィン修行に行きました。僕がサーフィンを始めた頃、日本ではサーフィンは特別なもの、ドロップアウトした人がやるものと見られていてけど、オーストラリアではサーフィンが文化になっていてサーフィンやっているなんて常識。サンタがサーフィンしている切手があるくらい生活に溶け込んでいる。僕が始めた頃はお父さんがサーフィンしている人なんて殆どいなくて、オーストラリアなんかおじいさんもその又おじいさんもサーファー。その辺の違いを凄く感じました。日本では考えられないことですけど、僕がおじいさんになる頃にはきっとそうなるんだろうなって思っています。


■日本のサーフィンが社会的な地位を得るために働きたい

茅ヶ崎支部では子供サーファーの育成に力を入れていて、ローカルルールをつくり朝学校に行く前と夕方の時間はキッズ優先、大人達は子供を優先的にのせてあげるようにしています。今年大沢ノブ君がJSPA のチャンピオンになったり、大橋カイト君が ASP のジュニアチャンピオンになったりしたのもそういう事が影響していたのかなと、10年たってようやく育ってきたかなって感じています。高校野球なんか甲子園に行くっていったら壮行会とか凄いじゃないですか、サーフィンで全日本に出るって言っても今までは壮行会なんてあり得なかった。茅ヶ崎サーフィン協会が市の体育協会に属してからは、先生が朝礼で説明してくれて壮行会やってくれるんですよ、子供の意識も変わりますよね。茅ヶ崎市が毎年スポーツ優秀選手を表彰しているんですが、サーフィンも同様に表彰してくれる。その辺が茅ヶ崎って素晴らしいと思いました。昨年サーフィンのアジアオリンピックがバリ島であって代表で出た茅ヶ崎の清永亜希子さんが金メダルを取ったんですよ、そうしたら市役所に垂れ幕が掛かって盛り上がりましたよ。僕はこれまで夢中でサーフィンをやってきたけど、これからはサーフィンが社会的地位を得るために働くことが、僕の役目ですね。子供達には「オリンピック金メダリストが日本人には沢山いるじゃないか、だから基礎体力や身体能力は決して劣っていない、やれば出来る。考えの違いや環境の違いはあるけど目標を持ってがんばってほしい」といつも話している。世界チャンピオンが出たら凄く変わると思うんです。その可能性を持っている子が茅ヶ崎に何人もいます。各ショップも協会に所属していて、キッズの大会を毎年やっているんです。大会っていうと競うだけじゃないですか、そうじゃなくて大会経験してもらうという考え方で幼稚園から中学生までの子供が参加でき、初心者も参加できるように海の中に補助が一緒に入って押すクラスがあったりするんです。他にサーフィンアカデミーという子供達だけを集めて毎週日曜日に開催するスクールがあったり、市役所が開催しているスクールとかいろいろな活動をしています。大学が日本体育大学だから学内にオリンピック選手がいたり、体育を極めている人が多かった。僕はハンドボールとかバスケットとかいろんなスポーツをやったし、教員になろうと思って免許を取って目指した時期もあった。でも一番長くやっているのがサーフィン。そして今はサーフィンの事ばかり考えています。きっとサーフィンに勝る物がなかったって言う事ですね。でもサーフィンだけしか知らなかったら、続いていなかったかもしれません。

藤沢譲二  東京都国立市出身 60歳
フリュードパワー サーフクラフト代表


■ハワイ

15歳の時、ハワイの親類に預けられて、皿洗いのバイトをしながら英語学校に通わせてもらいました。ハワイの従兄弟がサーフィンをやっていて、アラモアナの売店の前のポイントに連れて行ってもらって波乗りしたのがサーフィンとの出会いでした。ロングボードだったからすぐに立てたし、ローカルの友達もできて学校の裏門で待ち合わせては、365日毎日波乗りしていました。
波乗りを始めて三ヶ月くらいして、アルバイトをして貯めたお金でダウンタウンのラッセルスポーツにあった89ドル99セントの赤い板を初めて買いました。みんなから「なんだ、その板!」とからかわれて、その次に買ったのは150ドルのちゃんとした板、その二つのボードの長さや細かな形まで今でも覚えていますよ。
僕がハワイにいた頃ショートボードが出現して、今までのロングボードとは全く違うサーフィンの劇的な変化の時代でした、その話を友人にすると羨ましがられますよ、本当に良い時代にハワイにいたと思います。
僕も若かったし毎日波乗りをしていて、波乗りを純粋にとらえてましたね。
しばらくして母が日本から来て永住権を取り、今も母はハワイで暮らしていています。
今でもサーフィンはもちろんパドルボードもやりますが、毎年冬場はハワイで過ごします。最初の一週間はおふくろのところに行き、後は店を閉めるわけにいかないので皆で順番に行き、最後は僕が片付け役として少し長く行きます


■人との出会い

けっこう日本とハワイを行ったり来たりしていて、19才の夏休みにはハワイで知り合った茅ヶ崎のサーファーの家にお世話になり、その二年後には鎌倉のサーファーと知り合い、しばらく鎌倉に住んだこともあるんですよ。でもいま茅ヶ崎に住んでいるのは、その茅ヶ崎のサーファーの影響が強かったんでしょうね。 人との出会いで自分の生活する場所まで変わるんですから、人生って面白いですね。25歳のときに日本に帰ってきてしばらくは東京でいろいろな仕事をしていたのですが、茅ケ崎の先輩を頼ってサーフショップを始めて35年ですよ。 茅ヶ崎にきて最初に印象に残ったのは、僕より若い地元のサーファーの純粋さでした、僕なんか色々な仕事を経験してきたから彼らほど純粋じゃなかった。 僕はプロ一期生として10年戦ってきた、その後しばらく休んだ後 JPSAのロングを設立、とにかく人を集めないと始まらないので大変でした、当時ロングはお荷物でしたから上手く動き出すのに三年以上かかりましたよ。


■子供サーフィンスクール

毎年開くイベントとしては、今年で16年目になるのですが、小学校1年から6年までの生徒を対象にした子供サーフィンスクールがあります。今年は25人の応募がありました、25人の子供にサポートが36人つきます。マンツーマン方式なのでクラブのメンバーやお客さんがボランティアとして手伝ってくれますが、社会人が平日3日間休むのはとても大変だと思います。
このスクールを通して子供たちに海のすばらしさを、少しの怖さを味わい理解してもらいたい、そしてサーフィンを好きになってほしい。
毎回感動するのは、参加する子供の中には言うことを聞かない子供や、やんちゃな子供もいて最初はバラバラですが、スクールが終わる頃にはみんなが一つになっている。子供たちは一日何回も波に巻かれて辛い思いをするけれど、その度に波をとらえる感覚が少しずつ解って来る。僕たちが教えなくても海や波が教えてくれるんですよ、その子供の喜びをみんなで分かち合えるんです。
こんなスクールの第一期生にJPSAグランドチャンピオンになった田中樹や、昨年プロになった若手NO.1の大橋海人がいます。
自分の所のサーフィンの大会はスタッフ任せで出来るけど、子供サーフィンスクールだけは任せられませんね。人との出会いで今があって、そしてその友人が僕を支えてくれている。そのことを本当に感じさせられます。
これからも人とのつながりを大切にしてお店も、波乗りも続けますよ。

千葉県勝浦市鵜原在住
オーシャンサプライズ代表
照岡道廣 60歳


■サーフィンを始めてからピークで乗れるまで

波乗りを始めたのは35年くらい前ですかね。地元の鵜原ビーチに東京から先輩の大工さんがロングボード一本持ってきたんですよ、みんな並んで待っていて乗らせてもらった。それがサーフィンを始めるきっかけです。
教彦さんとは松部で一緒にサーフィンをしていたけど、そのとき教彦さんはスター俺はただのローカル。教彦さんは鴨川の川井さんのところにいて一番サーフンをしていた頃で輝いていた。こいつはすごいなって思った。次元が違うサーフィンをしていましたね。プロになるにはそれを超えないといけないけど、俺にはそれが無理だとわかっていましたから、ずっとアマチュアでサーフィンしていました。
CHPの中村さんや川井幹雄さんがマリブで乗っているころ、俺は鵜原で修行していた。しばらくして俺もマリブにいったけど、上手な奴がいなくなり暗くなってからゲッティングですよ、そんなことが三年続いたかな。当時のマリブは威厳がありましたからね。ショートボードやっていて桜井喜夫さん(通称ヨッチャン)と知り合い、教彦さんやローカルの蛸操とも知り合ったけど、それでもピークから乗れるのに8年かかりましたよ。腕前だけじゃなくて顔が利いてスター性も出来てこないと乗れない。ローカルといえどもグループに入ってコミュニケーションが取れないとピークには行けないし、ポイントブレークなんて入れない。
昔のマリブはオーバーヘッドの良い波がきていたんですよ、でも今は変わった。エビとかアワビを増やす魚礁を作ると言って、沖にも投石したんですよ。だからうねりが直接リーフに当たらないで魚礁に当たってパワーが落ちたうえに、道路が出来てバックウオッシュも入るようになった。


■ヨッチャンの還暦トリップを企画

ヨッチャンの60歳の還暦パーティをするために、いろんな人に協力してもらってモルジブのボートトリップを企画した。現役のプロサーファーを三人入れてGAORAと雑誌に話をつけたんですよ。GAORAでは一時間半の番組になった。プロの他にはヨッチャンの板のスポンサーしている添田博道、後は金と時間に余裕がある友人をいれて毎日船上で還暦大パーティ。
実は二年前に部原でGAORAの取材受けたときにモルジブに行く計画があることは触れておいたんですよ。そうしたら向こうからどんなメンバーですかって乗ってきたんです。
船では4000ドルくらい酒飲みましたね、4000ドルの量をどう説明したら良いかわからないけど樽の生ビールはすぐ空いちゃうし、シャンパンありバーボンありで毎日乾杯の嵐。
ヨッチャンとはこの先も出来るだけ短いのでやろうって言っているけど、少しずつ長くなってきていますね。(笑い)ショートでやるのは頑張ってあと4〜5年、65歳位になったら板が長くないと体力的にきついと思う。
ハワイのサーファーのように、シャワー代わりに朝のサンセットで5本くらい軽く乗ってから朝食を食べるとか、仕事帰りにワイキキの優しい波に入ってから帰るとかやっていれば、いつまでも出来るだろうね。。


■ウエット屋の仕事

ウエットスーツの仕事に就いたのは、サーフィンのブームのピークが過ぎてきた頃、そろそろ仕事をやろうかなって思った。それから29年間、もがきながらやっています。24歳でヨッチャンに出会って、こんな面白い遊びをやらないてはないと思った。
ヨッチャンのクラブハウスに転がり込んでアルバイト生活しながらサーフィンに夢中になった、気がついたら30才。そろそろ仕事をしないとまずいと思っていたときに友人がウエットスーツ屋をやるんで勤め始めたんですよ。でも平日に松部とか部原とかいい波が立つじゃないですか、波があると仕事に行かなかったからやっぱりクビになった。(笑)
それじゃ自分でやろうって思い、ヨッチャンからビクトリーというウエット屋を紹介してもらって、そこのライダーをさせてもらいながら、基本を教えてもらったんですよ。デザインするとか型をおこすとか作る工程は解るんですが、全くゼロからのスタート、失敗もありましたよ。最初に作ったヨッチャンのウエットなんか胴が長くて足が短くて、「すごいウエット持ってきたなー」って言われた。その話はいまだに言われますよ。(笑)
ウエットもこの数年素材がめちゃくちゃ進歩して、高くなったけど保温性がすごく良くなった。素材は日本製が一番良い。柔らかくて毛のある奴とか良いものができてきたけど、もっといいものを作りたい。今作っている素材も開発に3年くらいかかったかな。
所属プロはハワイにいるワールドチャンピオン、デレク・ホーやマイケル・ホーと子供2人。マイケル・ホーの娘がワールドツアーにデビューしてすぐに1勝して話題になった。日本人のプロサーファーも入れたら17〜18人になるよ。
5年間部原ビーチでWCTやっていたとき、中村さんの紹介でハワイの日系ジョン・シモオカという選手と知り合った。泊まれるあてもないのに友達をたくさん連れてきて、泊めて食わせてくれたら大会のときにロックホッパーのウエットを着るという話になった。それ以来ハワイからどんどん来ては泊まっていった。その一人がデレク・ホー、マイケル・ホーだった。英語もしゃべれない俺なのにラッキーでしたよ。
ワールドチャンピオンをデレクが取ったって聞いたときは感激したけど、ウワーお金がかかる!どうしようって思った。ワールドチャンピオンの契約料なんてわからないけど、会社が小さいから契約料はたくさん出せないって正直に言ったら下げてくれたから、そのかわり3年契約にした。
彼がチャンピオンをとって俺も世界が変わりましたよ、今でも一緒に酒を飲みますよ。


■今年は俺が還暦

昔は4フィート以上の波もやりましたけど、今は3フィートが限界かな、反応が遅くなっているからあぶない。一応部原や松部はチェックするんですよ、でも年々入らなくなりましたね。天気のいい日に気分よく乗りたい、本数じゃなく良い波を5〜6本も乗ればいい。
今でもサーフィンできるって幸せですよ、当時の仲間が集まれば昔に戻れる。みんないつまでも若者。サーフィンは海を通して仲間が増えるすばらしいスポーツですよ。
今年還暦ですが、俺もスケジュールを組んでトリップに行こうと計画しているんですよ。でも人が多すぎて人選が大変ですよ。一緒に行くプロサーファーがきっちりやりたいと言っているからメンタワイかノーススマトラかモルジブかってところです。ボードトリップは皆が仲良くなれる、目が覚めたらポイントしかないわけだから。みんなのサーフィンみているだけでも楽しいんですよ。
いままでもプロサーファーを連れて5回くらい海外取材に行きましたが、プロサーファーの乗る波は危険だから僕は優しいところで楽しくやっていますよ。
ずっとサーフィンを続けたいから、サーフトリップに行っても無理しないで自分にあったサーフィンを楽しんでます。

黒木 保 千葉県市川生まれ 54才 クォーターサーフボード代表取締役 シェーパー


■アメリカ・ハワイがサーフィンを始めたきっかけ

波乗りを始めてやったのは30数年前、中学の同級生でジャステスサーフボードの板を削っている田島三男というのが波乗りを始めて、かなり波乗りに狂っている時期で一緒にやろうと誘われた。僕はそんなに興味がなく、年に一回か二回くらい付いて行く位だった。 その田島とアメリカへ行こうって話になって、僕はサーフィンには興味が無かったけれど、「アメリカ」に惹かれて19才のときにカリフォルニアに行った。それがサーフィンをやるきっかけになりましたね。何の知識も無いのにホテルも何も予約なしで行ったんです。行ったときに運悪く交通ストがあって、交通機関が何も動かなくなった。しょうがないからイエローキャブを使って移動していたんですよ。でもその頃は一ドル300円以上の頃だからお金がすぐに無くなっちゃった。二人でおおざっぱな事を考えて、島だったら歩いて動けるだろうってんでハワイに行く事にしたんですよ、ハハハハ大きいのに・・・。持っていたのが一年使えるオープンチケットだったからハワイ経由で帰って来られたんです。 アラモアナのホテルは、ベッドが四つも入っている一泊250円くらいの小さな部屋だった。夏だからアラモアナの波は最高に良くて、田島はますます狂ったようにサーフィンしていた。その頃からかな、僕がサーフィンやるか!て思い出したの。田島はテッドで働くのが決まっていたから先に日本に帰って、二ヶ月位後に僕も日本に帰った。


■修理のバイトを頼まれたのがこの仕事に就くきっかけ

しばらくプータラしていたらテッドの阿出川さんの奥さんから アルバイトで修理をやらないかって言われて、それがきっかけ で今の仕事をやるようになったんです。それからあっという間 の25年ですね。 テッドで板の削り方を教わったわけだけど、 その頃は教わると言うよりも見て覚えると言った方が良いかな 。その頃テッドにはシェーパーの飯高さん、蛸さんと田島がい て、飯高さんからとにかく見てろって言われた。段取りだけ教 わって後は自分で見てきたモノを作りながら覚えるという感じ でした。たくさんいろんな板を見て試して、今に至っている感 じですね。 一昨年、田中兄弟のイズキが僕の板で全日本のグ ランドチャンピオンを取ってくれたんですよ。一般ユーザーの 板を作る時もプロの板を作るときも同じように接していますし 削り方も同じなのですが、プロの板を削るときには気が入って しまうようです(笑)。ボトムのラインを少したててほしいと かレールは少し落とした感じにして欲しいとか、そういう話を 交わしながら作ります。僕の板を使うプロは日本に三人、バリ に二人います。 ユーザーと向き合った時に自分の頭の中に一 番乗りやすい板がイメージ出来るんですよ、これだったら間違 いないぞって。その感性で作った板が自分の板だって思ってい ます。


■昔のサーファーは熱く繋がっていた。

昨今は波乗りの楽しみ方が変わってきて、競技一辺倒じゃなくて、長い板やセミロング、ファンボード系まで多種多様でいろいろな楽しみ方をしていますね。 僕も昔は毎日入りましたよ。その頃のウエットはビーバーテールしか無くて、オニールのフルスーツ見たときはびっくりしましたよ。サーフボードも材料から何から変化していて、昔と違って軽い、でもボードが薄くて軽い分弱いですよ。余り弱いって言っちゃ行けないんですが、ハハハ!よく折れます。 昔は大きい、重い、厚い、曲がらないでしたからね。 その頃、一日中海にいるみたいな、熱くなっている人がたくさんいたんですが、今は余り見ない。僕たちはその頃のパイオニア的なサーファーの二代目、盛り上がりも凄くて楽しい時代でしたよ。 ポイントに行くには風を見て行けよ!とか、海にはいい人がたくさん居ていろいろな事を教わりましたよ。今は簡単にネットなんかでいろいろ情報が手に入るから人との繋がりが希薄で熱くならない。


■クォーターサーフボード

ここはボード工場と店と住まいと一緒になっていて、スペースが限られているから板に関わる物しか置けないですね。ウエットスーツもサイズだけ取って注文。服は置かない。デッキパッチとかリーシュとかくらい。作るのはクラブの子に頼まれて作る、クォーターのオリジナルのTシャツやタオル、帽子くらいかな。店の名前は、四人兄弟の末っ子だったし四人兄弟で一番の厄介者が始めた仕事だからクォーターにした(笑)。
一応体が動かなくなるまで、波乗りも仕事も続けますよ。

伊豆 白浜マリーナ 酒井厚志51才 日本サーフィン連盟広報委員長・理事

サーフナッツのサーファーズは見ていました、源さんのページも見ましたよ。
みんな知っている人ばかり、自分より若いのは赤井くんくらいかな。サーフ1の編集長になって忙しいみたいです。桜井喜夫さんは僕が高校三年でサーフィンを始めたころ新島で出会いました。島でキャンプしていて、いかにもサーファーのお兄ちゃんって感じで、今でもそのころのまんまですね。20年くらい前にスリランカでも会ったことがありますが、ズーっと同じペースで人生を楽しんでいる。源さんも一年中あの感じ、スクールではスパルタで教えていますよ。僕のところのスクールは年間500人位、7、8月の夏が中心で冬は休んじゃう。大体ネットで調べてから来る人がほとんどで、直接来る人はいないですね。初心者がほとんどですが、リピーターも多いですよ。今は昔と違ってハワイのように、この辺のホテルからオプショナルツアーで来る人も増えています。午後は水族館に行くから午前中にサーフィンスクール、みたいな人達にも教えているけど、そこから波乗りに入ってくる人もいます。


■高校3年で始めたサーフィンが仕事に繋がった

僕は東京で生まれて、高校三年の頃に鵠沼でサーフィンを始めた。その頃はサーフィンブーム。サーフィンやっていればカッコいいなんて時代。暴走族の先輩がサーフィン始めて、車高の低い車で爆音たてながら鵠沼とか辻堂とかを走り回っていたハッハッハ!
僕もレッグというお店で2万円くらいの安ボードのセットを買って始めたんです。ウェットスーツまでは買えなくて、でもあまりにも見窄らしいから黒のTシャツと黒の海パン履いて、遠くから見るとウエットに見える工夫をした。寒いけど見た目が大事!とそんなことやっていました。その後丸井でビーバーテールのウエットを買いましたけどね。
学生時代から下田の民宿旅館でアルバイトしながら波乗りやっていた、源さんと知り合ったのもその頃ですよ。大学生の頃は夏だけこっちに居たけど、4年で卒業できなくなって5年目は1週間に1回か2回しか大学に出なくて良いから、こっちにいる方が多くなった。源さんとはその頃からだから長いですね。白浜荘って言うところにサーフショップがあったんですよ、オーナーが源さんに進められ、ゴッデスの鈴木正さんが協力して作った店の店番をやっていたんですよ。6〜7年やってそこをやめた後ここへ来てショップを始めたんですよ、店番しながらいい勉強させてもらいました、自分で一からだったらきっと駄目だったでしょうね、源さんにもとても助けられましたよ。


■白浜の波

この辺は探せば波乗りできない時は無い。白浜が良いと多々戸がオンショア、多々戸が良いと白浜が駄目みたいに。ここは東伊豆なんですが、東伊豆で風が吹くと西伊豆で波が上がるんですよ。西風でオンショワでも西伊豆は風波でサーフィンできる。白浜は外房のうねりが入るし多々戸は沖縄のうねりが入る。南から北まで拾える恵まれた所です。ただサイズだけは不満ですね。ここは東のスエルが入っても、大島とかでブロックされて沖にテトラが入ってるように遮られる。スエルが回り込んでくるときにブロックされる。北のスエルが回り込むと千葉にも無いくらいの良い波が入ることもある。不思議な所です。
僕は、今日は良いなって時にはいります。午後は風が変わってオフショワになるなんて聞くと早起きしてね。今朝はショートでしたが、ロングにも乗りますヨ。ここの波の良いときはクローズ気味のワイドでロングじゃ乗れない、シュートでドルフィンスルーじゃないと出られない。パワーもあるからロングじゃ折れちゃう。


■ショップ経営の苦労と楽しみ

サーフショップのお客さんは減っていないですね、でも財布の紐が堅い。大会に出る人も減ってきた。昔は大会に出るたびに板を替えたり新しい滑り止めが出ると替えてみたりフィンを替えたりと、コンテストやっている人は毎年替えるんですよ。今は皆エンジョイするのが目的でサーフィンしているから道具にあまりこだわらない。これが本来の姿なんでしょうけどね。競技志向の人も残っているし、楽しみでサーフィンする人は増えているだろうけど、商売的にはあまり良くないですよ。だって道具が良くなってきたせいで同じ板に5年でも10年でも乗っているし、パワーコードだってなかなか切れないですもん(笑)。昔はリ−シュにヒビが入ってすぐに駄目になった。
年に一回、同年配とサーフトリップには行きますよ、モルジブとか。最近は中国の海南島と台湾。でも中国は大失敗!波がないから毎日朝から円卓で中華料理とビール!台湾は食事が美味しいし波も当たりましたね。頭ちょっとで充分楽しめました。メンタワイとかスマトラとか、同年代の50前後の業界の仲間やメーカーの人とかで行くんですが、船の上だから喧嘩もできないしサーフィンのことしか考えていないから楽しい旅ですよ。
僕は東京に生まれて育ったから海の側に住みたかったんですよ。20代から30代はサーフィンやるためにはどうしたら良いかしか考えてなかった。ここに住むようになって、いつもサーフィンが出来る幸せを宝にしている。仕事をしていても、それだけは忘れないようにしている。成功してお店を増やすとかより、初心を忘れずにここでがんばる。忙しくてサーフィンが出来ない環境に自分を持って行きたくないから。それがこっちに移った最初の目標だったし大切にしたい。
インターネットのおかげで地方にいてもハンデも感じなくなったし、まして目の前がゲレンデ。ここから情報を発信していけばいいと思うんですよ。
店の有るこの場所は風が強い吹きだまりの様なところで、昔は国道も無く個人の持ち物だった。北東の風が吹くと砂がばんばん飛んできて、50年くらい前までは砂丘!年寄りに言わせると、あんな所に誰も住まないって!ハハハ・・・。お店の上にライブカメラを二台つけてホームページで観られるようにしている。みんなそれだけ観て帰っちゃうみたい。店を始めた頃は波の情報が知りたい人から電話がばんばんかかってきて仕事にならなかった。ホームページで朝だけ波の情報を入れたけど、今度は昼の情報を知りたくてかかってくる。写真を撮って朝と昼に載せたけど、それでもかかって来た。それでついに今のライブカメラにしたんです。波の情報を見にホームページに来てくれていいんだけど、商売につながらない。ハハハ!

太郎さんに出会わなかったら今サーフィンやっていたかどうか分からないね

金指源二通称:伊豆のゲンさん63歳

■サーフィンとの出会い

昭和39年6月オリンピックの年に白浜の海で弟と遊んでいた時、日本サーフィン連盟を作った高橋太郎さんがウエスタンの仲間8人くらいとボードを持って国道から出てきたンですよ。後ろに舵みたいなのがついた変な物を持ってきたなって思って、ずーっと見ていたンですよ。30分くらいしたら一人が海からあがって来て「この近くに泊まるところがないか」って聞いてきた。当時はこの辺に宿泊するところは無かった。実家が白浜神社の前にあって、昔は10畳の離れがあって学校の先生が下宿したりしていた。帰って親父に話したら「空いてンだから泊めてやんな」って言ってくれた。太郎さんに話したら喜んでくれて、下田に飯食いに連れて行ってくれた。帰ってから太郎さんのグループがワイキキでサーフィンしている8ミリを見せてもらったンですよ、ものすごく感動したね。 太郎さんたちが帰る日に「宿泊代金はいらない」と親父の言葉を伝えたら、「じゃボード貸しておくからやってみな」って置いて行ってくれた。それからはまっちゃったンですよ。だから太郎さんに出会わなかったら今サーフィンやっていたかどうか分からないね。 それから3年くらい経ってから太郎さんが白浜に来た帰り、車で東京に帰る途中で営業をするから良かったら一緒にボードを見に行くか?て連れて行ってくれた。茅ヶ崎の長谷川家具屋さんに行ったら今のゴッデスの鈴木正さんが店員でいてサーフィンコーナーを任されていた。当時は頭を七三にわけてサーフィンをしない普通のサラリーマンだった。それから東京の太郎さんの家で一泊して次の日に電車で戻ってきました。そのときはまだ工場は無かったンですが、何年か後に外国でシェープを習って帰ってきてから始めたから日本の第一人者じゃないかな? マリブのボードが出来るずっと前のこと。その頃スケッグ(フィン)はベニヤに樹脂を塗って作っていて、ストリンガーもすごく厚いし、レールもすごく厚いから重くてね。


■仕事

高橋太郎さんが茅ヶ崎のゴッデスを立ち上げて、僕はその時の一期生なンですよ、太郎さんのところに二年ほど住み込みでいてスケッグを作っていたンですよ。クロスを何枚も貼り合わせて固まる前にベニヤの型に合わせてカッターで切るンです。そこは二年くらいで帰ってきて白浜にGENJIサーフショップを開いたンですよ。 あるときTEDの阿出川さんがマイク・パーパスって言う外人サーファーを連れてきてしばらく預かってくれと託されたンです。当時のスタープロサーファーで外国の雑誌でしか見たこと無い人に家でいろいろ教えてもらった。そこにカメラマンの佐藤傳次郎さんがやってきて、サーフィンマガジンの記事にすると言って写真を撮って行ったのがこの写真。 しばらく白浜でサーフショップやっていたけど、当時はサーフィンがそんなに普及していなかったからサーフショップをやめて磯料理店をやったりライダーやったり、いろんな仕事をしましたよ。ペンションは37歳で始めました。夏が終わると毎年20日間くらいバリに行っていたンですよ、だからこのペンションのアンテックな家具はその時に買って船便で送ったもの。このペンションの設計も最初建築会社が持ってきたのが可愛過ぎるので、自分でやった。二階は真ん中を吹き抜けにしてどの部屋からもトイレとか洗面所に行きやすくなっている。 今でも地元のサーフショップのライダーやっているが、その店のオーナーはいつも一緒に波乗りしている若い人。私の波乗りをいつも見ているからボードスポンサーになってくれているのだろう。そんじゃなきゃこんな60過ぎたのにボード出さないよ。ウエットは岡君のラッシュがスポンサー、白浜に来るとかならず顔を出してくれてウェアーとかタオルとかいろいろ持ってきてくれる。毎年ウエット変えるのに最初の頃は岡君と直接やっていたけど、今はショップから直接もらう。 (笑)


■サーフィンに燃える

サーフィンと出会ってロングやってショートやってまたロングやって、今でもまだまだ燃えているっていうか、ほんとサーフィンは奥が深い。 続けるために毎日朝4時に起きてストレッチして3キロくらい歩いて、帰ってきてからペンションの支度をしますね。俺がショートに乗っているのを知っているのは白浜に来て見た人くらい、あまり知らないんじゃないかな、ワハハハ! 太郎さんは今もサーフィンやっているかな・・・・。

>

体力に自信があるから80まではサーフィンをつづける。

東京都福生生まれ、茅ヶ崎在住。佐藤信雄さん59才

■ ヨッチャンとの付き合い
桜井喜夫と出会ったのは19才の連休に今のカミさんと新島にサーフィンに行った時だから40年の付き合いですね。それ以来ヨッチャンとは毎年1〜2回30年近く新島に通っては同じ民宿に泊まるようになった。 高校2年で波乗りを始めて、すっかりサーフィンにはまっちゃいました。 ヨッチャンは2月のいろりを囲む会と7月の海開きに茅ヶ崎に来て、秋には茨城のアンコウを食べに行ったり、僕が新賀に遊びに行ったりと、結構密に会うんですよ。 ヨッチャンは誰でもウエルカム、でもハンパすると「お前!何やってんだ!」と怒られる。これが結構恐い。でもヨッチャンを悪く言う人はいない。僕なんか兄貴と思っていますから。


茅ヶ崎という町

茅ヶ崎でサーフィンをしたのは高校三年の時、その時は台風で波も大きかった。浜の海の家にたむろしていたバーバリアンて言う店の人たちが僕にロングボードを貸してくれて入った。 波乗りしたくて、大学を2年で中退していろんな仕事をした。お金がすこしできて、昔はメインストリートだった加山雄三通りにランプという喫茶店を作った。アンテーク調のお店で、南義隆や東京からいろんな人が来て楽しかった。朝起きたら隣に安岡力也が寝ていたりした。(笑) 茅ヶ崎は人に優しい、良いところです。普通はよそから移ってくると余所者扱いされるのに此処ではそんな事が無い。たまたま知り合った人が良かったのかもしれないけど、初めてここに来た時から茅ヶ崎って良いなーと思った。以来ずっと住んでいる。 昔はこの辺も毎日波が立っていたんですよ、この前のシラカバって言う浜も2年くらい前から深くなっちゃってほとんど波が立たない。サザンビーチのカボチャポイントは台風が来るとレギュラーのものすごい波が立つんですよ、チューブ巻いて。 (笑)


海の家

僕は内装会社やっているんだけど、従業員がしっかりしているから仕事しなくてもいい。(笑)6月から海の家を建て始めて、7月オープンで9月に片付け。一年のうち3ヶ月は海にいてサーフィンしている。
海の家はデザイナーの中野弘道と毎週海で会ってビール飲んでいるうちに、海の家っていいな〜!やっちゃおうか!て事になって、中野がお金出してくれて、海の家は僕が作った。それからは海の家にはまって新島に行かなくなっちゃった。仲間が来て波乗りしてシャワー浴びて、波見ながらデッキでビール…・これが楽しいです。
7月の海開きの日、海の家のオープニングは凄いですよ。この辺のサーファーがほとんど集まるし、茨城、千葉、静岡からも沢山集まってきて賑やか。


サーフトリップ

昨年の2月にスリランカにサーフトリップに行く予定だったけど、内戦になって観光が入れないから6月のモルジブにした。10日間毎日波乗り。 プロサーファーからヨッチャンや清野とかの年寄りサーファー、カメラマンまでみんなバリバリに上手い。楽しかった! とんがらしマークのオーストラリアのシェーパーの板6,6.9,6.10の三本を持って行くんですよ、ロッカーのきつい板で歳だから跳んだりはねたりはしないけれど、けがを覚悟でチューブですね。 今までで一番の波はフィリピン、シャリガオのクラブナイン。アフターリーフが沢山あって、人がいない。そこに波がないときは弁当を作って島の反対側にあるゴルゴスまで6時間かけていく。コテージも何もない凄いところで波はシャローでホレホレ、僕はエアーとか飛ぶのはやらないけれどチューブは簡単に入れる。リーフが見えて落ちたら足がズタズタになるような所。そんなところで僕も足切ったけれど医者がいないから、アロンアルファとバンソコで止めた。確実に出て来られないとやばいですよ。でもあのブルーの土管に入っている感じ、凄くきれいですよ。ピークからチューブに入らないでグーフィーから入ってレギュラーで出てくる、スピードが違う。波の力があるから何でも出来る、自分が上手くなったように感じられる。


波乗りの楽しさ

恐怖感が好きで、大きいのに乗ってボトムまで降りてターンする。そんなスタイルで全日本でも台風の大きな波の時にファイナルまで残っている。頭くらいでは全然駄目、浜松の時もみんな川から出て行って前の小さいのに乗っているのに、僕は正攻法で出て行って大きいのに2発乗って、あと一つが乗れなくて勝てなかった。
全日本の大会に出てファイナルに残って、そこで全国から集まった仲間と飲むのが楽しい。サーフフィンは好きだけど僕はプロになるほど上手くない。プロになるには他の人よりグンと秀でていないと駄目、そんな人は光るモノを持っている。僕は遊びの延長線でやっている。
一応ロングは持っているけどやっぱりショートですね。それからデカイ波が好きだから「9のガンに乗ってかぶ根!」が好きなんですよ。かぶ根に波が立つ日は、ウエット着て軽トラックで出かけて行って、濡れたまま帰ってくる。
大崎のグーフィーとかぶ根がダブルラインで繋がって、今までに見たこともない凄い波が入った日が有った。ヘリコプターが二機救助に来ていた。8.2のガンに乗って4時過ぎまで入っていたら、そこにセットが入ってきて沖に潮が流れ、これはなかなか帰れないって思っていたら、10フィート以上のお化けが入ってきた。これは乗るしかないってボトムまで降りていったらいきなりボキッ!て板が折れて背中を海底の岩に思いきりぶつけた。その時はもう死ぬかと思った。
中学から色々やってきたけどサーフィンにまさるスポーツはないですね。スノーボードなんかある程度同じ条件で練習が出来るけどサーフィンは潮が引いたり上げたり風が吹いたり、いつも同じ条件じゃない。だから、行き着くところ
が無い。でも歳をとると体力が落ちるから維持するのが大変。ヨッチャンは60過ぎても体力維持して海に入っている。海に入らなくなったら乗れなくなっちゃう。カボチャでこの辺の年寄りの大会があって、優勝しちゃった。なにしろ何十年もやってるホームグラウンドだから癖が解るんですよ。
体力があるから80まではサーフィンを続けるよ!


「ショートをやめるときが波乗りをやめる時」それが自分のポリシー」

桜井喜夫 昭和21年ビートたけしと同じ足立区梅島生まれ
千葉に吉田さんって人がいるんですが、吉田さんがやめるまではショートを続ける。ショートで千葉の頂点に立とう思っているけど、なかなか元気なの。(笑)
もともと海が好きだったけど、たまたま見た「波乗り」って言う本がきっかけでサーフィンを始めた。最初の板は月賦の店で買った。板は高いから、上手くなればライダーになれるだろうと思って一生懸命がんばった。それから波乗りにはまっちゃって、35年くらい前に辻堂から千葉の大東にメインを移し、毎週末に通ったけど、早く上手くなりたくて勝浦に家を借り、それからずーっと勝浦。
千葉のあちこちで家を借りて住んだ。今の大家は壊れるまでいて下さいって言うからシンガに落ちついた。昔民宿をやっていた家だからデカイ。その辺は東京から来ているのが多くいて初め地元にいじめられていた。オレが飲み会やって仲良くなって今は和気あいあい。


■お金がなくてもサーフィンはできる
ライダーだからってお金はもらえない。板とウエットとウエアーだけ。食べる為に勝浦の農協で一日三食ついて3000円の椎茸の栽培を手伝った。木を切ってドリルで穴を空けて椎茸の種を入れて山に並べるの。
同じ時期に米運びも手伝っていて、米の検査を見ていたら検査した米をパッと床に捨てちゃうの、勿体ないでしょう。次の日からここに捨ててよってバケツを持って行ったら一ヶ月で10俵にもなった。そのバケツは結構活躍して、その頃はサバもイワシも沢山とれていた時代だから、漁業市場に行くと待っていてくれてバケツいっぱいに魚を入れくれた。それをさばいて海水につけ、美味しい干物を作ることも教えてもらった。
ビクトリーの和泉さんって人が千葉にお店を出すから手伝ってくれって言われてはじめて波乗り関係で3万円のお金をもらったことが有ったけど、僕はそういうお金をもらうと飲みにいって一晩で無くなる。だから皆が家に泊まりにきて帰るときに千円とかなけなしのお金を置いていく、一週間それで食いつなぐの。ほんと、友達に助けられた。今はもっと助けられている。(笑)
根がバカだから波乗りだけやってきた。免許も無い、携帯も無い、お金も無い。お金が有るのが良いのか無いのが良いのか解らないけど、今62歳。あと何年でも無いから最後までこの暮らしを通すよ。ノホホンと波と遊べるのが一番。天国にお金は持って行けないからね


結婚式

実はオレ56歳で結婚したの。女房とは24歳離れてる。前から付き合っていたんだけど、大腸切って入院したときに毎日親身になって看病してくれた。それである日、病院のベッドでカーテン引っ張って「結婚したい」ってプロポーズしちゃった。身内だけ集めてパーティーでもしようと思っていたら、親友から「もう少し派手にやれよ!」と言われてニューオータニにしちゃった。ニューオータニにはブライダルにも料理の方にもサーファーが沢山いるの。お金一銭も無いので後払いでも良いかって聞いたら、後で良いって言うからね。300〜400人の招待予定で始めたその準備が大変だった!
ホテルってすごく何でも高いのね、でも色々と無理を言って安くしてもらった。
引き出物は、陶芸教室に通っている友達にぐい飲みを500個作ってもらった。入れる桐の箱は大工の友達に、それを包む布は日暮里の生地屋の友達に、手提げ袋は銀座天賞堂につとめている友達にそれぞれ作ってもらった。
全部打ち合わせを済ませてフィリピンへ雑誌の仕事で行ったの、そしたらある晩に女房からFAXが入っていて、オータニから式の代金の一部300万を払うように言ってきていると書いてあった。女房もお金が無いから泣いている顔のイラストが描いてあったよ。(笑)帰ったらなんとかするから一週間待ってくれるように言った。友人で金貸ししているのがいたから、500万円借りてニューオータニに行ってドンって払っちゃった。
結婚式は、ニューオータニ初の飲み放題にしてくれた。サーファーは気取ってめかし込んでくる、だからスタッフは全員アロハにして気楽にやってくれってお願いして、フロアーのスタッフに10万円、調理場に10万円を渡したら、料理長がスタッフにも心付けしてもらったのは初めてだってお礼を言いに来た。
うちの親父の教えは、遊ぶなら徹底的に遊べ!中途半端な遊びは止めろ!お金が無くても有るだけ使って遊べ!っていうの。(笑


海外サーフィン

海外の海に行き始めると長いの、フィリピン13年、ハワイに6年、バリに10年くらい、通っていたけど賑やかになってきてイヤになってやめちゃった。スリランカに家を建てた友達に呼ばれて行ったら2年くらいで湾岸戦争が始まった。それでも15年ズーっと通って、スリランカの新聞にも載って有名になっちゃった。
もう海外はやめて日本に居ようと思って最後にマニラに行ったの。セブに飛んで船でスリガンって所に行ったら波の宝庫。今日は波が多いから掘れる波でやろうとか、今日はゆっくりファンウエーブ乗ろうかとか色々選べるし、物価は安くて1ヶ月1万円で生活できる。ビーチのはずれにあるマーケットがトタン屋根によしず、雨が降ると雨漏りするから慌てて皆で片付ける。そんな所だから直ぐに友達が出来て、家に呼ばれて仲良くなる。俺は英語を全然しゃべれないけどヘッチャラ、ボディランゲージで付き合う。


海岸の変化

天気が良くて面が良い日にのんびりと波乗りしたいから、オンシュワではやらない、千葉は探せば何処かに波が有るから。天気図を見て行くけど皆いるのよ。今は30分したら皆来ちゃう、それも良いんだろうけど変わったね。今の時代に生まれて波乗りしているのが幸せなのか、昔のように良い板も情報も無かったけれど、人工的にいじられていない波に乗れるのが幸せなのか…?
大原は防波堤が出来て変わったし、鯵ヶ浦の浜なんか観光バスが浜に入れるくらい広かったのに、日立港を造る時に砂防堤を造って流れが変わって砂が全部持って行かれた。砂を入れるけど、また持って行かれる。テトラ入れなくても自然に地形は変わるけど、あんなに激変しないし変わってもまたいつか戻る。部原もテトラを入れたせいで夏は南風が吹くから付いて、冬は北風が吹くから掘れる。計算して入れているのだろうけど、自然には勝てない。
25年間通った新島は、始めて行った頃は人も居ないし波も良かった。ダイハツミゼットにボードを乗せて草むらを掻き分けて浜まで行くと、目の前にすごい波が立っていた。未だに脳裏に焼き付いている。でも今は波が無い、新島の白い砂をゴルフ場用に使いだして無くなった。


人や波との出会い

波乗りは、この年でも夢中だ。最近は僕の周りで入院したり亡くなったりするヤツが多いから、よけいガッツいて波乗りしちゃう。(笑)
波乗りって毎回開眼なのよ、今日は腕上がったなって思っても一週間経って行くとまた前と同じ、やってもやっても終わりが無い。スキーだとあのギャップをもう一度滑りたいと思えば滑れるのよ、でもあの波にもう一度乗りたいって思っても同じ波は無いからね。波は午前と午後でもガラッと変わるから、それに合わせた波乗りしないといけない。でもそれが楽しい。板が合わないなら波に合う板を作るとか、今は良い板がいっぱい有るから作らなくなったけれど、自分所の若いのにはどういうテールが好きなのか見つけろって言う。自分の乗り方にあったテールが有るはず。10人10色、立つポイントも皆違うから結論は出ないけど探す事が大切。
波乗りしていなかったらすごく寂しい人生だったと思う。一つの物を追い求めてやって来たから良かったのかも。波乗りが有るから若いやつとも話せるし付き合いの巾も広がる、遊ぶなら沢山の人と遊んだ方が面白い。
波乗りも人とのつき合いも自分から飛び込んでいかないと駄目。すごい波だからって目で見て入るのを止めるとか、向こうで楽しそうな事やっているけど知らない人だから入らないとかは駄目。勢いつけて入って行くと向こうから友達になってくれたりする。飛び込んで行かないと何も始まらないのよ、一回飛び込むと分かるし友達も出来る。


 

東京のお台場で22年間ウインドサーフィンの施設EHUKAI BEACHを経営。

成尾 均 東京都出身
学生の時は山をやっていて山岳クラブのデポ隊(登山サポーター)の手伝いもやっていました。その時に雪崩に遭って仲間五人が亡くなりました。それでがっくりきて山をやる気をなくしていた時にTEDにいた館野と知り合いサーフィンを始めました。それがサーフィンとの最初の出会いでしたね。


大学の時にTEDのライダー。
21才の時には勝浦の松部に家を借りて毎日サーフィンをしていました。新島の都知事杯に1回目から出て3位に入賞し、23才の時にハレイワでやっていたマーボーロイヤルで優勝した。ハワイに一年あまり行っていて帰ってきたら、土木関係の仕事をしている親父からそろそろ仕事をしろと言われた。そのとき一部上場会社に就職は決まっていたけれど、どうしてもサーフィンしたいから1年だけサーフィンをやらせてくれって家を出ちゃった。で、またハワイに行って人生がガラッと変わった。帰ってきたらプカシェルが大ブームで30本ほど持って帰った物をアメ横のショップが現金で買ってくれ、それが商売の始まりかな。


25歳で大井町にキッドサーフというショップを開いた。
その頃はサーフィンが右肩上がりの時代だったから結構忙しかった。僕のところから分かれてショップを始めたのが何人かいる。サーフィン人口が100万人に増えるまではすごいブームで暴走族がボルトでボードを屋根に止めて走っていたり、僕が16才の頃は青春の登竜門みたいに一回はサーフィンやらないといけないようなそんな時代だった。だからルールも何もなく一つのダンパーの波に何十人と乗っちゃうような飽和状態のブームが続いた。でも突然ガタガタとブームが去っていった。今はウインド人口が30万人、サーフィンは80 万人くらいかな。


ウインドがロサンゼルスのオリンピックの種目に。
どんどん下から若手が出てきて、自分がプロとして出来なくなった頃、そろそろウインドでも始めようかと考えるようになっていった。丁度ウインドがロサンゼルスのオリンピックの種目にとりあげられて流行ってきた。でも俺は初めウインドを馬鹿にしていたの、ただ乗ってさ水の上を走るだけじゃないかって。でも湘南や房総の仲間もみんなウインドをやっていて、僕も阿出川さんに教えてもらって少し乗れるようになった。始めは全然乗り方が解らなくて時間が掛かったけど、それを越えると面白さがわかってくるんだよね。


フィリピンでビーチリゾートをオープン。
その後知り合いの松沢さんがフィリピンでゴルフ場を造るって話を聞いて、仲間とみんなで遊びに行ったんです。そしたらそこにはレギュラーの良い波まで入っていた。みんなで相談して資金を集め3万坪の敷地に10棟のコテージとレストランのあるプラランビーチリゾート始めたんですよ。谷になっていて水源はあるしいい波は入ってくるし、サーフマガジンの編集長とかプロサーファーが来て、みんな最高だよと言ってくれた。でもマルコスが亡命して情勢が危なくなってきたから、三年でそこを放置して日本に帰ってきたんです。


お台場にウインドの施設をオープン。
その頃にたまたま寄った台場は、周りに建物はなく海を挟んだ正面に東京タワーが見えて海の科学館があるだけ、海にウインドがばんばん走っていて、東京のど真ん中にこんな所が有るのかって驚いた。22年前鈴木都知事がその台場にウインドの施設を造るって聞いて、知り合いのツテでその施設が借りられてウインドの仕事を本格的に始めた。タイミングだね。他の人が先に始めても不思議はなかったけどホントにタイミングが合ったんだね。フィリピンでリゾートをやっていなかったらそんな感覚は無かったと思う。その当時の台場は海上に50艇以上がいて,砂浜には100艇以上のウインドが置いてあるという状況。すごいメッカだったからね。12年前から周りに商業施設やビルが建って以来あまり風が入らなくなった。ここも22年だから歴史があるよね。 若い子供には道具が大きいから、車がないと移動できないし大変なスポーツだけど、カヌーとウインドと両方を楽しめる場所が台場にあるんだから、近くの学校の授業にしようと話を進めているところなんだ。小さい子供に水遊びの場所を提供したいと思っている。


サーフィンやるなら一からやり直す。
みんなからサーフィンをやれやれって言われ、知人主催のオールドマンコンテストに行った時、シンガの頭位の波にゲッティングってこんなに辛かったっけって思った。不細工なところを見せたくなかったからコンテストには出ず、上がって酒飲んでいた(笑い)。サーフィンやるならゼロからやり直したい、中途半端はやりたくない。アラモアナで昔見かけた風景だけれど、白髪頭の爺さんが波を見てパッと海に入っていく、良い生活だよ。東京湾でもそういう波が立っていたら僕もああなっている。サーフィンの後のクリアーで何もない感覚、そんな感じのスポーツは他には無いよね。


●次回は桜井喜夫さんを予定しています。 ショートボードに乗っている現役で一番古いサーファー。錦糸町に住んで、毎週末はシンガの家でサーフィンをしている。

世界基準のジャッジが揃えば、世界で通じるサーファーも出てくると思う。

小川昌男  昭和32年鴨川生まれ


実家は鴨川の海の前でホテルをやっている。
サーフィン競技のジャッジは僕がシェ−パーだから続けられるんですよ。
試合のスケジュールに合わせて、その前後に仕事を振り分けければ出来ますからね。シェーパーは30年くらいやっているかな。鎌倉に移る前、鴨川にいた時はほとんど100%プロサーファー。乗ることでお金を得ていた。    
最近ではジャッジとして日本で一番初めに僕の名前が出てくるようになりました。JPSA(日本プロサーフィン連盟)という団体があって以前はそこでジャッジをやっていたんですが、そのころ日本のジャッジと世界のジャッジに開きが有ると感じていた。点数の出し方が世界と違う。日本はジャッジが悪いからうまいサーファーが生まれないじゃないかと…・。ジャッジがサーファーを採点する時、海外ではAが上手いと採点するのに、日本ではBが上手いと採点する。そうやって評価された選手が海外の試合に出て行って勝てるわけが無い。
フラダンスのコンテストに盆踊りの上手い選手を送り出しているようなものです。
当時のJPSAの理事の人にジャッジを何とかしてくれと言われて、ただ好きでやってるだけじゃ無く、ちゃんと仕事としてやらなければいけないと思ったら抜けられなくなった。(笑)自分の経験を伝えてジャッジの教育をすることも必要だし広めていかないといけない。試合のたびにローカルジャッジに世界基準を教えることで、次にその人が他の人に教える。そうやって地道に日本中に広めていきました。
そんなことをやってる内に、僕自身がジャッジとしてもっと勉強しないと始まらないと思い、オーストラリアやアメリカにいきました。三年くらい前まで主に海外の試合を回っていました。丁度ASP(世界プロサーフィン連盟)の組織の中で世界の試合を回っていたのでASPから日本の役員になってくれと言われ、日本のJSPAの活動を止めASPの仕事に就きました。
ジャッジは良いサーファーであることが必要ですよ、今までのサーファーとしての経験と実績をもとに採点しています。選手に対し厳しい点を付けているジャッジがあまりへたくそだといけないからね!(笑)
鴨川に自分のシェープマシン工場があって、そこにコンピュータで作ったデータを送るんですが、それが貯まると二週に一度くらいの割合で鴨川に行き、その時サーフィンをします。茅ヶ崎がサーフィン発祥の地と言われるけれど、鴨川もみねおか山と言うところにレーダー基地が有って、そこの基地の米軍サーファーが鴨川で始めて50年くらいの歴史が有るんじゃないかな。僕の家も6人兄妹の皆がサーフィンをやってたんです。僕はもう40年もサーフィンしてるけど、僕が始めたときは他の兄妹はもう止めていたんです。だから兄妹とは一度もサーフィンしたことが無い。鴨川にはそれくらい古い人が一杯いて、サーフィンの歴史はかなり古いんですよ。
僕は今年からツアーマネージャーの仕事をしています。試合を組み立てたり、進行から何から何までやります。子供達の指導は日本の未来のため、チョットかっこ良すぎますが(笑)、強い選手が出て来てWTC(世界で一番上手い44人)のツアーに入れる選手が一人でも出て来てくれると違うんですよ。良いところまで来ていて、本当にうまい選手がいるんですよ。世界のトップまではいかないけど、WCTの44人には十分入れるだけの実力を持った選手。でも層が薄いかな。もう少し人数がほしいな。そうすれば何とかなるんだけど。
僕はジャッジ講習をやっているんですよ、でも日本の場合ジャッジの給料だけでは食べていけないし、そういう仕組みも出来ていない。おそらく家族が居たら僕みたいに別の仕事をやって生計をたてなくてはジャッジを続けられない。ブラジル人のジャッジは世界中を回ると家が立つと言われるけどね。世界で通じる未来のプロサーファー達の為にも、そのへんが改善されることも必要ですね。

いまは、人と遊ぶよりもっと海と仲良くしたい。

赤井得士 サーフ1編集者
東京都大田区生まれ 44才
17歳の時に辻堂でサーフィンをはじめました。友人がサーフィンをやっていると聞いて、バイクで海まで遊びに行って始めて体験しました。その時は初心者に優しい波で最初の30分位で波に乗れて、波の斜面を滑る感じが気持ちよくて完全にハマりましたね。それからは毎週末にサーフィンに行こうと、中古の板を探しました。先輩から5000円で中古のウエット、10000円で中古の板を譲ってもらいました。友人のおじさんの別荘が辻堂と鵠沼の間にあってその別荘の小屋に友人達はボードをおかしてもらっていたんです。電車で行ってボードを出して目の前の海でサーフィンする。恵まれていますよね。そこで僕もサーフィンを覚え、兄貴をサーフィンに引っ張り込んでからは、車でよく行くようになりました。その後はサーフィンを続けて行くために海に近い職業を選びました。小田原の福澤さんや鎌倉の抱井さんは、僕からすれば正当な根っからのサーファーだと思いますよ。僕の場合この仕事についたのも、たまたまなんですよ。横須賀の会社に勤めていたけど辞め、27才の頃はブルーワ−の工場でサンディングバフの仕事をやっていました、でも何年もその仕事をやっていこうとは思わなかった。
アルバイトをやってはバリやオーストラリアに行く生活、32才までフリータ−でしたよ。でもサーフィンは続けたいと思っていた所に鵠沼のビーチカルチャーというサーフィン関係の輸入の会社から新しいサーフィン雑誌を立ち上げるので編集を手伝ってほしいという話がきたんですよ。僕は編集の仕事なんてやった事無いけれど、サーフィンの世界がどうなっているのかをアドバイスしてほしいと言われ、以来それがきっかけでこの仕事をやっています。
思い出に残るサーフィンはタヒチとかニューカレドニアかな。僕たちがサーフィンをしているところにフランス人がデカイ帆船でやってきて「ボンジュール!」といって親子で海に飛び込んできてニコニコしながらサーフィンしていたり、港に帰っても帆船がズラッと停泊していて、みんな優雅にお洒落していた。それに比べて日本人は貧しいなって思っちゃいましたよ。(笑い)
海仲間の友人は少ないですね、仕事に絡んでくるから自分から作らないようにしているのかも、でもその前に自分勝手だからサーフィンが出来ればいいというのがベースにあるかな。人と遊ぶよりもっと海と仲良くしたい。それと家族が出来たから海と仕事以外は家族との時間にしたい。
今の仕事はこれからも続けますよ。2年前まで東京の高輪に編集室があったんですが、四年くらい言い続けてようやく逗子に編集室を移したんですよ、恵まれた職住接近です。子供はまだ小さいのでサーフィンはしないですが、僕が海にいくその後ろ姿を見てやりたいって言ったら一緒にサーフィンしたいですね。
赤井得士のブログ
「得♪のサーフィン系100選」

 >> http://www.hobidas.com/blog/surf1st/world-peace/

死ぬまでショートに乗っていようと思う

福澤 浩
昭和33年川崎生れ
 僕が抱井さんに会ったのは、17歳で学校をやめ、茅ヶ崎のゴッテスのサムライというウェットスーツファクトリーで働いていた時、抱井さんが鴨川から移ってきて、そこで始めて出会いました。髪はすごいロン毛でなかなかエキセントリックな感じでしたね、サーフィン三昧の毎日でしたよ。抱井さんは茅ヶ崎のゴッテスからドロンズそしてブリューワーのライダーに変わって、2000年からKシェープを始めたけど、僕はそのドロンズの頃からズーッと抱井さんのウェットを作っています。その頃に抱井さんの勧めでデュースを立ち上げました。32年の付き合いですから長いですね。青森や伊良湖や千葉とかあちこち一緒に旅行しましたよ。
 ウェットを始めたきっかけは、サーフィンに関わる仕事をしていればズーッとサーフィンが出来ると思って・・・それがたまたまウェットだった。ウェット作りで一番難しいのは型紙かな、元型に採寸した物を合わせて作っていくんです。これからノージップの素材の良いのやベルクロの伸びるのがあればウェットはもっと良くなると思います。
 サーフィンを始めたのは兄がサーフィンをしていて、連れられて鵠沼に行ってからです。面白くなっちゃって夢中になりました。そのうち、いつも車で連れて行ってくれていた兄から電車で勝手に行けと言われ、高校三年の頃から電車で行くようになったんです。20代の頃は僕もサーフィンを頑張ってやっていて大会にも出ました。そのころから酒匂に住んでいたけど、よそで大会に出るより、ここでサーフィンしていた方が良いみたいな素晴らしい波が立つところなんですよ。
 いまここ WESTSIDEの数年分のビデオを編集しているんですよ、いつかDVDにしたいと思っています。この辺は年中良い波は無いんですが、台風とか低気圧とか要素が揃うと素晴らしい波が立つんですよ。ビデオの陸撮りは三年前から、水中は一年半位前から始めました。波が良い日は乗らないで泳いでいても気持良いですよ、波乗りしているようです。このあたりは相模川を渡ってこちら側の人の道場みたいなところなんです。水中撮影は知っている旨い人だと目の前まで来ても安心なのですが、知らない人は信用できない(笑)。だから恐い事もあります。
 昨年仕事が凄く忙しかった時、心臓が度々ドキドキするので医者に診てもらったらどこも悪く無かった。単に忙しくて海にも入れなかった事によるストレス性の病気だったようです(笑)。ときどきロングもやりますが、板は死ぬまでショートに乗っていようと思っています。ここの波はロング向きでは無いですからね。この仕事のおかげでこれからも海やサーフィンと関わって行けそうなので幸せです。

 >> http://www.deucewetsuits.com/

「ボードを作っている時は本当に楽しい、サーフィンしている時と同じくらい楽しい」

抱井保徳
1956年千葉県勝浦市生まれ 52歳
 僕なんかは鴨川の川井幹雄さんや川名孝夫さんや野村昭さん達からサーフィンだけじゃなく、カリフォルニアやハワイの話を聞きたくて焚き火の輪に積極的に入って行って聞き耳頭巾。サーフィンは良いな!世界は広いぞ!と夢を沢山植え付けられました。
  僕がサーフィンを始めたのは近所の守谷海岸で泳いでいる時にサーフィンしている人がいて、1968年に始めたけど最初全然乗れなくて、1969年中学一年の時からハマリましたね。岡野教彦はそのころからスターで全日本の大会プログラムにインタビュー記事が出ていました。プロが出来たのが遅かったから教彦と同期のプロになったけど、早い時期に出来ていたら教彦はとっくにプロでしたね。やっていることは1965年頃からプロみたいでしたから。俺は今大会にも出ていないし、公認料も払って居ないからプロではないですね。その分ヒマなので雑誌の仕事がよく入ります。取材でハワイやバリに行くけど、ひどい時は明日からインドネシアに行ってくれって来るんですよ。俺はすぐに動ける方だから旅行に行って記事書くっていう仕事もやっています。教彦もヒマだったら行くだろうけど…以前は教彦とは大会に一緒に出場しオーストラリアにも2回一緒に行ったけど、面白かったですよ。レンタカー借りてゴールドコーストからシドニーまで海岸沿いを2日間かけて下るんです。向こうのサーファーを見ながらカーラジオから聞こえる向こうの音楽に乗ってね。
  シェイプは自分のシェイプルームは持っていないので色々なところに出向きます。CHPの中村さんの所にも行きましたよ。湘南でも2箇所ほどで頼まれて削ります。一回に10本くらいずつ、結構大変で朝から晩まで籠もって・・でもいい波だと仕事が止まっちゃいますね。まだそれが許される業界だからやっていけるのかな。シェイパーにはそれぞれこだわりが有ると思うけど、俺の場合は乗りやすくて見て格好いいボード。ただ乗りやすいだけではダメ、流線型で誰が見ても格好いいフォルム、それですね。
  サーフィンライフの取材で教彦と写っているボードは、板削ってくれって言われた時、教彦が高校生で出場し優勝した全日本のイメージがバキッとひらめいて、その時の板を思い出して削って持って行ったんですよ。そうしたら教彦もその時のカラーリングを思い出して復元して教彦カラーのボードが出来たんです。ロゴも35年前の雑誌からコピーして和紙にプリントして作ったんです。
教彦がボードも乗り方もリセットしたらサーフィンが上手くなったと話していたそうだけど、長いことやっていると最初の頃の事を忘れてきて、大事なことを見失っちゃう事が有りますよね。ホント一番楽しかった頃のことを思い出すって大事ですよね。板を見ればどんな乗り方をしたらいいかピントひらめきますから、それですぐアジャストしてくれたんじゃないかな。乗り手が良いとホント苦労が無いですね。作り手冥利に尽きると言うことですかね。
  桜の木のてっぺんに乗って職人のおじいさんが枝払いをやっているのを見ると自分も80歳位までシェイプを続けようと思いますね、僕の目標です。技術的にはやることは一緒ですから多分出来ると思います。コンピュータシェイプが主流になっても、削れる人がいる限りハンドシェイプは無くならないと思う。テンプレートが無くても昔のテンプレートを組み合わせながらイメージで作る。作っている時は本当に楽しい。サーフィンをしているときと同じくらい楽しい。

 >> http://www4.ocn.ne.jp/~k-shape/

「血も細胞も、すべて波乗りからもらった

岡野教彦 おかののりひこ
1956年、東京都両国生まれ。兄、岡野孝親の影響を受けて、物心ついた時からサーフボードに乗っていた。18才で日本初のプロとなる。当時、まだ日本のサーフィンにはプロが存在せず、NSA(日本サーフィン連盟)の働きで全日本のトップクラスのmenとJr.が数人選ばれ、プロとして活動するようになった。日本のチャンピオンとなった1978年岡野教彦の元に、ASPの前身IPSよりオーストラリアで行われる世界選手権に、日本人のプロサーファーとして始めて招待状が届いた。日本のサーフィン史に残る歴史的な出来事だった。「プロとは言え当時はスポンサーがほとんどつかず、オーストラリアへの遠征費用の一部をchpの中村一巳氏から援助してもらったものの、残りのほとんどは自分持ち。サーキットを転戦することも出来なかった。それに比べると今のプロはスポンサーがすべてを負担してくれる。随分恵まれているよ。」海外の波を知り尽した岡野教彦の記憶の中で思い出に残る波は、ハワイでもオーストラリアでも無く、なんと日本。1980年ごろ地元の松部で一週間続いたすばらしい波、この波は当時のサーフィンクラシックという雑誌でも特集された程の波で、彼の一番記憶に残る波だと言う。「ショートボードからロングボードといろいろ乗ってきたけれど、またロングから順番にシングルフィンの昔の板に戻していったら、以前より波乗りが上手くなってきて、高いレベルで波乗りができるようになった。今は楽しくてしょうがない。」最近、スクールのコーチを熱心にしている。「プロに教える事も大切だけれど、初心者にサーフィンの楽しさを教える事が、波乗りを長いこと続けてきた俺が今やる仕事だと思う」

●次回は鎌倉のプロサーファー抱井氏をお訪ねする予定です。

「海は感動がいっぱい!」

小松久里子 (旧姓長井くりこ)
1971年3月31日千葉県松戸市生まれ。一宮在住の元女子プロサーファー、 現在小学校3年生、6歳、3歳の三児の母。19歳の時にサーフィンと出会いそれを契機に一宮に移住、23歳でプロに転向。27歳で現役引退する迄、数々の大会で華麗なライディングを披露、ファンを魅了してきた。そんな久里子さんの感動体験の一番目、茨城の鯵ヶ浦の膝腰サイズのクリーンな波で初めて横に滑れた時。二番目、プロに転向してハワイのベルジーランドに入り、初チューブに思いきり感動。三番目は同じくハワイのサンセット、6フィートの波でドルフィンが効かずびっくり、死ぬ程思いきり巻かれたこと…。去年、息子と行ったハワイで海亀に出会い、横を一緒に泳いで、またまた感動。海と家庭をこよなく愛して生活する久里子さん、最近一番下の3歳の子供が保育園に入り少し手が離れ、またサーフィンに没頭中。少しずつ感を取り戻しつつあるようです。「これからは家族みんなで、ずーっとサーフィンをエンジョイしていきたい。」by kuriko

photo by kumiko hirasawa

●次回はプロサーファー岡野紀彦さんを訪ねます。

「大切なことは、すべて海が教えてくれた」

中村一巳 なかむらかずみ。
1938年8月18日新潟生まれ。CHP株式会社取締役会長。1976年、千葉県一宮サンライズポイント前にchpサーブショップをオープン。中村さんがサーフィンを始めたのは24才の時。「アメリカで使われているようなトランクスの生地は当時の日本には無かった。アメリカ大使館まで行って生地の事を聞いたり、リ−シュコードにしても自転車で使うゴムロープを使って手作りしたり。とにかく何もない状態から始まってるから、作るためにいろんな事をしたよね。」1963年、カリフォルニアから日系のシェイパー、タックカワハラ氏を招いてサーフボード製造技術を学び、米沢プラスチックの協力を得て国産サーフボードの開発と販売を開始した、川井幹雄氏をテストライダーに迎えて歴史的な「マリブサーフボード」の誕生だ。1965年中村さんらが発起人になり、日本サーフィン連盟(NSA)を創設。第一回の全日本選手権が1966年に鴨川で行われ、本格的なサーフコンペが日本でも始まる。中村さんはこれ迄サーフィンを広める伝道師的活動や、サーファーたちへの助言やサポート、環境問題など、地道な活動に多くの時間を割いてきた。「これからもずっと海の近くにいて、孫と一緒にサーフィンをしながら、何かしらメッセージを送り続けたい、それは誰もやらないときからサーフィンをやってきた自分の海に対する恩返し、使命のような気がします。」

 

●次回は元女子プロサーファーであり、ご主人もサーファーで三人の子供たちもサーフィンを始めた。一宮在住の小松久里子さんを訪ねます。